対位法的読解

マルチン・ルター(マーチン・ルーサー・キング牧師は彼の名前からとられた)は、アウグスティン修道会の坊主だったが、免罪符=贖宥状(indulgentia―ラテン語活用はこちら)問題でカトリック教会を1521年に破門された。1520年に書かれたのが彼の「キリスト者の自由」。この主張をそのまま読んでも、僕たちはなにがルターのすごいところなのか、いまいちわからない。聖職者の腐敗を糾弾し、万人が司祭になるべきという、歴史的解説を聞いて「ほうそんなものか」と思うにすぎない――一部の中世ヲタを除いて。しかし、それから320年後のフォイエルバッハキリスト教の本質』1841年(第二版序文)は、ヘーゲル宗教哲学を批判し、唯物論的の基礎をつくり、マルクスエンゲルスを欣喜雀躍させた彼の議論は少々難渋(なんじゅう)だが、その主張はそれほど違和感がない。しかし、フォイエルバッハの文章にはルター(ルッターと表記)があり、彼の頭の中では、ルターは宗教改革という宗教思想の洗練化の先駆者としての意識がある(=連続性)のだろう。フォイエルバッハは、さらにそれを推し進めて、キリスト教批判をおこなっているのだから。
対位法的(contrapuntal)に読むとは、音楽の対位法のイメージからくるが、あるテーマだけが共通で、異質な時空間の著者を併置して、その思想家の「思考のパターン」を(比較を通して、かつ内在的に)把握する方法なのである。
◎対位法的読解
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/030110contra.html