侮蔑語の使用は陵辱の状況に似て

【侮蔑語の使用は陵辱の状況に似て…】
 昔「地獄の黙示録」(コッポラ)で授業した時に、生井英考さんの本「ジャングルクルーズ…」が大いに参考になったけど、その本に載っていたか、別の資料か(黙示録にはコアなファンがいて百科事典も作っている)で、ベトコンに対する侮蔑語「グーク」を知る。それは戦前の日本語なら中国人を蔑視する「チャンコロ」に近い、いまではフォーマルなところでは絶対に使われない禁止用語だ。その「グーク」が、もともと朝鮮戦争時にアメリカ軍が、北朝鮮の兵隊(ゲリラ)をそう呼んでいたということをその授業の準備の時に「知識」として僕は知った。リンク先のウィキペディアにはアメリカのフィリピンへの植民地化戦争(米比戦争)の頃から売春婦を侮蔑する言葉として使われはじめたという。おまけに20世紀初頭のニカラグアでの介入でも現地人への蔑称として使われている。そんな歴史的経由を知らない1980年代の中米の売春婦たちは、俺達、東洋人に「お前たちが性行為する(したい?)時は、chiqui-chiqui というんだろ?」とよく言っていたことを思いだした――僕はよく「ちがうちがう OMANKO ないしはOMEKO、あるいはBOBOと言うのだ」と即座に訂正した。そんな客観的事実などは彼女たちの記憶に残らず、相変わらず chiqui-chiqui の語彙を彼女たちは放棄することはなかった。ま、それはともかく、沖縄戦を戦った米兵にも、琉球の人を呼ぶ時に、そんな語彙があったのだろか?――侮蔑語の使用はフォーマルなところでは憚られるわけだから(心の抑圧メカニズムに似てなかなか)記録に残りにくいのだ。だからウィキの説明も、統計的な根拠など示すことができず、アネクドート(挿話)の中から初出を選び出す――まるでJames MurrayによるOED編纂のような作業ではある――という神話の上に神話を重ねるような虚しい言及を積み重ねている。僕には歴史的事実よりも、むしろ(自明のことだが)侮蔑語の使用は陵辱の状況に似ていて、そこになにかの歴史的正当性を与えても、何も得る事がないという奇妙な虚脱感――あるいはそれ自体の孤高性――しか感じることができないのだ。