学問の「脳死判定」基準・批判

【学問の「脳死判定」基準】
 同業者の友人の偉い先生が、御自身のエッセイのなかで「学問の脳死判定基準」なる文言(ジョーク?)を書かれていてぎょっとする。彼女によると、1)学問の内容に関して同業者が「それは〜学ではない」と言うようになること、2)学史の流行、3)出自の多様性が小さくなること、をあげている。僕よりも遥かに偉く、また尊敬を受けている大先生だが、不遜にも「先生、そりゃ全部妄言ですよ〜♪ 先生の頭のほうが『脳死』を疑われますよ!」と言いたいね。僕が医療人類学者だから言うのではないが、脳死は立法があり法的定義をされているが、日本文化の中ではいまだ恐怖の言語――じつは欧米も変わりない――専門家が専有する権力用語であり、それをメタファーとして使うのはフェアじゃないというのが総論批判。1)差別語や陰口して「それは〜学ではない」というのは馬鹿な妄言だが、批判する連中が論拠を明らかにすれば、それは批判的な生産概念となる、2)学史に「流行」などあるのかどうかはわからないが、ヘーゲル的な歴史存在ではなく歴誌(ヒストリオグラフィー)としての知識や理解、そして再解釈こそは学問の進展(掘り下げる意味では深展)の原動力になるはずだ、この先生は歴史ではなく「歴史主義」を批判するのであればオーケーで僕は批判を取り下げよう、そして、3)出自の多様性が、発言者の「現在の学問的議論」の多様性を保証するのであれば、世界は身分制社会のままでもいいじゃないと僕は強弁したくなる。出自が多様でも議論はモノセティックな全体主義という分野はあるし、出自が多様でなくても議論は百家争鳴という分野もある。思考の多様性は、出自によって決まるわけではないからだ。以上。