「信憑性の呪術」について

「この錯綜した死の世界を前にして、私の考えは混乱をきたしている。ある思想体系を練り上げ実行することが本当に必要なのだろうか。思想体系を持たないという自覚を得ることのほうが、ずっと有益ではないだろうか」――プリモ・レーヴィ『アウシュビッツは終わらない』邦訳43ページ
 竹山さんは、この引用を2度おこなっているけど、二度目には「この錯綜した死の世界を前にして、私の考えは混乱をきたしている」という前の文を省いている。そして、省いたものを、最初での引用の文の主張(=代弁解釈行為)と同じようにイデオロギーへの不信の表明だと言う。僕は竹山さんの理解は完璧に間違っていると思う。この錯綜した死の世界=ラゲールにおいて「混乱をきたしてい」状態においてなお、自我を保つもう一つの別の方法(=最初の方法は「思考体系」をしっかり持ちそれを実践する思念と行動の一致させること)について言っているのだから。これは、思考の開かれの可能性が、とんでもない状況のもとでもあり得るということを言っていると僕は思う。中世の神学者だったら、まさにこれこそ人間が動物的なものに転落しないことを保証する神の「恩寵(χαρις, gratia)」だと言うだろう。
 言うまでもなくこの恩寵は、社会生物学/進化生物学者ならば、遺伝子(gene)と言い換えるだろうし、今、流行りの進化心理学者ならば脳の回路(neurotic circuit)と言うかもしれない。俺達は、中世の神学者を引き合いにだして恩寵概念で説明すると「馬鹿馬鹿しい」と鼻で笑うが、遺伝子だと(古いタイプの文化人類学者だったら青筋立てるけど)、みんな好き放題いって盛り上がっている進化心理学の脳の回路という「ブラックボックス」だったらふむふむと耳を傾ける。恩寵も遺伝子も回路も、その「事実」を説明する方途であって、その現象そのものではないのに、「信憑性の呪術」によって、あるものを別のものに置き換えて、これこそホンモノだと信じてしまう。