国学=national academy の撞着語法

国学=national academy の撞着語法】
 いくらデモクラティックだからと言って、半世紀以上前の偉人のテキストを教科書として復活せよって、やっぱり、アナクロニズムの馬鹿ですね〜♪ こういうのは中国古典(あるいは種々の勅語)の素読や暗記よって子供に「徳育」をさせる発想と五十歩百歩ですな。
 国学=national academy の撞着語法とは(メキシコのかつての人類学や考古学にも言えますが)、ナショナルアイデンティティンティをつくるためには唯一の本質的思考や方法があると信じることです。しかし歴史上のナショナルアイデンティティンティをつくるイデオロギーは決して単一なものでなく、複数かつ多声的で、かつ、その「本質的発生」からほど遠い外来からの密輸入がばんばんあるのです。ナショナルの確立とはエイリアンの創造にあるわけですが、そのエイリアンの多くは内なる思考の産物であることが、国学の撞着語法の理由となります。20世紀初頭のナショナルイデオローグたちは、それをインタナショナリズム止揚しようとしましたがそれは自らの行為でないかぎり、単なる強制的な思想的操作(=全体主義思考のレパートリーのひとつ)にすぎませんでした。国学も反国学も、異床同夢をみていたのでしょう。
 本居宣長のテキストが現代に生きる思想の糧になるでしょうか?宣長は、その歴史的文脈に位置づけてはじめて意味をもつわけですし、またその歴史の「本質的真理」はどうも唯一無二ではないという相対化による読み直しの可能性を拓くわけです。
 万葉集は、やまとごころの本質表象だと思っても、表記法ない当時には漢字の助けによって、言語を必死に記録するという行為があったわけですし、その編纂のポリシーが読み人知らずと天皇皇族が併置されていても、編纂の理念は「民主主義」というわけではないでしょう。そもそも民主主義というイデオロギーという抽象が単独で存在するわけではなく、それを操作し取り入れたり排除したり、そもそも具体的な社会的活動とセットになってはじめて意味をもつわけです。
 古典は復古することに意味があるのでなく「読み直して」複数の解釈を生み出すことに意味があることを、この人は忘れているのでしょう。