福島の米を買う事はつねに〈支援〉とはならぬ

【フクシマの米は中国米よりも安全か?ー=That is idiot question!!!】
 ――「中国産米」=キケンを過度に一般化する人が多い(給食に福島米を使う報道に父兄が反発し騒いだからだ)。フクシマの米も、中国の米も、人気がないのは「汚染の有無」ではなく、(根拠の乏しい)「信頼性の無さ」によります。つまり人民の無知による。だから、中国からの輸入米には日本の税関当局による安全性の抜き取り検査があり、フクシマ米は、すべての米に放射能検査をおこなって認証をつけています。それでもなお、価格差があるのは需要と供給の関係で、人気がないからです。それも根拠の希薄な「不安」――前者は人種的偏見、後者は放射能汚染恐怖――から来ています。
 日本人は中国米に人種主義を投影し、福島県産米に放射能恐怖に基づく理不尽な差別をしています。だからと言って、中国米や福島県産米を買えば、差別がなくなるというわけではありません。差別心のない人が、他の商品と同様、さまざまな角度から吟味して、それらの米を選択するのです。風評被害というものを、理不尽な消費行動の結果と人はよく言いますが、完全に理不尽でない消費行動というものがあるのでしょうか?資本主義社会にいきる消費者は、すくなくとも完全無比なホモ・エコノミクスではない。
 その意味で「福島の米を買う事は(万人にとって)支援である」と強弁する――とりわけ他人に強要する――ことは(万人にとって)間違っています。御自身が「私は福島の米を買って支援している」というゆうに御自身の気持ちを「納得」させているにすぎません。福島の農産物を何がなんでも買わなければならないというのも――福島の農産物を絶対に買ってはならないと同様――理不尽な要求ですし、非論理的です。そもそも「福島の人を支援する」といっても「福島の米」をめぐって様々な価値利害を共有する人たちがいます。市場メカニズムの基本的仕組みから言っても「福島の米を買う事は(万人にとって)支援である」とは、結びつかないのです――ディズニーのお伽話を真面目に信じる人がいないように。むしろこういう非論理な善意を他人に教えて、自分の感情を納得させるのは(隣人からみれば)「狂気」に近いことを反省しましょう。自分の個人的心情と、自分の良心にもとづく実践と、それらが調和するのか不調和に終わるのかは自分の実践が社会に与える複雑な関係性のなかで決まります。ある関係のなかで決まり、別の関係の中では真逆のことになれば、誰しもが冒頭の前提が誤っていることに気づくはずです。それを「福島の米購入=支援」説を盲信する人は、自分の善意の信念を曲げたくないために、そう考えない人や、事実そうではない社会現象に目をそむけ、苛烈に(他人に)怒ってしまうのです。こういうドグマチズム(=自分たちの心情を決して曲げない盲信主義)は、最後には破綻します。