ディスクが散らかっている人はクリエイティブという主張を嗤う

【ディスクが散らかっている人はクリエイティブという主張を嗤う】
 条件を統制した、プロスペクティブな擬似的な「実証」方法ですね。「クリエイティブ」の定義はもうすしこし多義的ですので、僕はこんな与太雑文は、信じません。反証する事例をすでに知りすぎているということもあるかも。文化的時代的条件もあるかもしれません。左甚五郎やミケランジェロの工房が最初から散らかっていたら、ま、僕はこの学者のふりをするバカ学者の言うことに耳を傾けましょうが、たぶん、仕事の前にはマエストロは工房を整理した状態にしていたり、弟子たちに指示していたりして、仕事が終わると散らかるというのが、真に「クリエイティブな現場」なのでは? このような主張は、ディスクを散らかしている人を、擁護するためのクリエイティブを偽装的に構築するという議論なのではないでしょうか? ゴミ屋敷の主をクリエイティブと擁護してもいいけど、こんな主張を首肯する人は極めてマイノリティのクリエイティブな人かもしれません。ーー結局クリエイティブが、安易にかつ操作的に定義することができる前提が、完璧に誤謬なのだと思います。
 社会科学の経験的研究が、実験統制的な手法を用いるようになって以降、また研究費を取得するために話題性を造るたえに「言い訳」が欲しい人を「喜ばす」研究が増えてきたように思えます。西欧中世に「理性」的な存在として神を位置づけた聖トマス・アキナスのような知性が、いま再び必要とされているのかもしれません。他の人には異論があるかもしれませんが、僕は啓蒙主義のルーツの1つにトマス・アキナスは燦然と輝いていると思います。
 古典の意味を、つねに現在の知性によって鍛え直さない時に、人間は容易に暗闇(蒙)の欲望に征服されてしまうという寓意なのかもしれません。