批判的理性(critical reason)について

虎様ゑ

冠省
 スピノザの『神学・政治論』というのは、大昔に畠中さんという哲学者が岩波文庫に翻訳しているが、この畠中尚志訳が日本では定番になっている。さて、以前にも「エティカ」の畠中の解説を送ったと思うが――もし送ってない場合は御教示くだされ――なかなか趣深いものがある。今回、この『神学・政治論』の彼の解説において、私が発見したことは次のようなことである。
 中世を脱出する近代合理性の元祖たる哲学者たち、とりわけデカルトスピノザという人たちは、ことさらキリスト教(前者)やユダヤ教旧約聖書(後者)との対話や対決、あるいは合理的解釈と闘っているが、連中と時代や社会状況を共有していない私は、長く、この連中の格闘の意味が実感として湧いてこず、無神論的な現在のなかで、そのことの血みどろの対決の意味がわからなかった――例:ジョルダーノ・ブルーノの火刑や、ガリレオの恐怖など。
 比較的異端審問的な恐怖からは遠いところにいたホッブスですら、リヴァイアサンの中で旧約聖書の比喩を使うだけではなく、旧約聖書の解釈と取り組んでいる。スピノザがなんで、『神学・政治論』を書いて旧約聖書の「誤り」を正そうとしている努力や、このことが災いして、ユダヤ教を破門されたり、また、キリスト教側の弾圧に畏れをなしているかも、その恐怖のリアリティも理解できなかった。
 しかし、畠中さんの解説によると、どうも、彼らは、聖書的世界を「合理的に理解する」ための努力を試みており、そのことの矛盾=聖書の真理の書としての破綻を証明しようとしていたことがわかる。私たちには実感ないが、中世までの聖典・聖書は、真理の書物であり、トマス・アクィナスのように、真理として開かれる=開示される=啓示されることを待っている書物だった。だからこそ、それをアリストテレスの論理を使って説得的に「論証」したアクィナスは、中世最大の哲学者になった訳だ。
 しかし、スピノザホッブスは、まったく異なった方向から旧約聖書を読み解く、つまり、合理的な理性(らしき観念)をもって、聖書の世界を合理的に理解しようと格闘し、聖書の中にみられる非合理的や矛盾を指摘することで、この書物が真理を書き記したものではなく、何かの教えを説くためのものだという理解に到達したわけだ。
 ここにみられる、言わば「批判的理性(critical reason)」というものは、トマスの神学には決してなかったものだし、それは神を中心としてみるのではなく、それを読み解く人間を中心として理解しようとするという試みだったわけだ。私たちは、無神論ないしは、信仰生活(土曜日や日曜日)と合理的生活(ウィークデー)を区分する生活スタイルに馴れているが、これらを合致していた中世の宇宙論的秩序からみると、この近代理性の冒険者たちは、とんでもない思考法を身に付けた怪物だったに違いない。だから、ユダヤ教会もカトリックもこのことを畏れて、彼らを常時疑ってかかったのだろう。
 おそるべし!「批判的理性(critical reason)」というもの誕生だったわけだ。
 そのような時代の末端で、君たちは受験勉強しているのだ。私もそうだが、そのような恩恵を享受しながらも、御先祖たちの血みどろの格闘のことを忘れてしまって、生半可な理性概念を振り回しているが、その登場の時の異様さを誰も知らない。だからこそ、今の私たちの知のルーツを知ることで、受験勉強にもひょっとしたら深遠な意味と知恵(グノーシス)があるのかも知れない。
不一

頑迷な助言は眼を遠ざけるべし、親身な助言には耳を傾けるべし