ポストフェミニズムの思想

【ポストフェミニズムの思想にむけて】
 僕、昨日の臨床コミュニケーションの対話授業で感じたのですが――また善意の批判に対して(趣旨を敵意と考え)意外な暴論で反論されて意気消沈したケースに合いました。そこから得た経験的結論は「人はしばしば(客観的に聞こうとしないで)自分の聞きたいように聞く」という傾向があると思うのです。これを敷延すると「人はしばしば(客観的に考えようとしないで)自分の言いたいように主張する」(=欲望の充足)。
 どこかに俺達のなかにフェミニズムは批判的で開明的で先進的だという無批判な「偏見」があるのは、その(腐り切ってバカバカしいとは思いますが)反対側の連中も指摘するとおりです。それどころか今日では男女共同参画の体制派の人のように、セクシズムを補完するような体制側フェミもあるのです――もし伝統的主流派の人たちがそのようなものは「本物じゃない」「カモフラージュだ」と主張したりすると、悪しきマルクス運動論やスターリニストのようにフェミ一枚論ないしはフェミ無謬論を振りかざすことになります。
 まず、価値判断は相対的であるという観点に立って、よいフェミニズム主張もあれば、悪いフェミニズム主張もあると考え、よきものの立論をさらに批判的に継承、かつ洗練させていけばよいのではないでしょうか?また、さらには(マルクス主義派のそれの良き伝統の上に)こんな排他的な二項対立の後にでてくる思想――ポストフェミニズム竹村和子編で10年前に出版されていますが)――を想起することも必要なのじゃないでしょうか? セクシストの論理は破綻しているだけでなく、現実的にも立ち行かなくなる状況ですので、現実の抑圧的政治には声をあげて闘う必要はありますが、その論理や理論闘争の相手にはなりません。どのようなものが到来するのか、わかりません。だから探求する必要があるのではないでしょうか???

1)"ポスト"フェミニズムというタイトルの論集は、竹村和子編で10年前に日本で出版されているようです。
2)フェミニズムの課題は達成されたからもういらないという反動的な封じ込めに対する議論は、Susan Faludi, Backlash : the undeclared war against American women, Vintage , 1992(新潮社から『バックラッシュ』で翻訳あり). がその補助線になるようらしい。

【教育と反教育について】
 僕が書いたのは冷静になれってことです。どんなものにもバグエラーがあるかもしれないちゅうこと。
 この学生が理論用語に不案内でやっつけ仕事のレーポートで【正】「児童虐待が増えた要因がセクシズムの拡がり」と書こうとしたのだが、誤解して【誤】「児童虐待が増えた要因がフェミニズムの拡がり」と書いた可能性があるだろうと考えてみる必要がある(現実にそうでないとしてもだ)。
 フェミニズムに無条件に悪はないという無謬論をもし君たちが護持すれば、それは敵対するセクシスト勢力が「フェミニズムは絶対悪である」という論理と同じアナのムジナの圏内(=レベル)にいるかもしれませんぞっ!
 つまり、このレポートを躓きの石として、仮にこの学生が「フェミは児童虐待を誘発するのです」という主張をするのなら、その学生の論証のプロセスを検討してあげる必要があるのではないでしょうか? 
 教育に携わるものであれば、社会問題とその解決に正しい唯一の正しい答えがあるわけではないということをまず学生に教えてあげなければならない。そして自分にもっとも適切な答えを導く方法を自分で考えて、証拠を集めて、その主張が他の人にも首肯できるように論証しなければならない責務があることも教えるべきです。
 正しい答えがあるかのように学生に信じ込ませることは、それは教育とは言わず、言葉の正しい意味での反教育ということです。反教育の実践を必死こいて、おこなっているのが現在の文科省の道徳教育でしょう、たぶん!