変態と異常に関する諸言説批判

【変態と異常に関する諸言説批判】
 下半身露出の容疑者の「ストレス発散のためにやった」という調書あるいは警察署内での記者会見上の言説ってのは、ほとんど紋切り型の語りになっている。今回は紋切り型が齎[もたら]す弊害を問題にしたい。これならば、まるで異常行動はストレス発散という「機能主義的には首肯できる」行動になってしまうが、当局や医学の専門家の説明はそれでよいのだろうか? もし僕が裁判員だったら、こいつ(=容疑者)に降り懸かった「ストレス」の原因が、こいつの変態行動を引き起こしたのだから、この原因が情状にあたるものだったら、こいつ刑量を軽くすべきだし、本当の変態(=病的にイカレテイル)のあれば、罪は問えないだろうと言いたい。もちろん、犠牲になった子供や婦人への「被害」の程度と修復(レジリエンス)の可能性にもよるが……。いずれにせよ「ストレス発散のためにやった」という表現には、何か、変態行為を犯す――1人で密室で孤独にやれば罪に問われぬ――ことの「社会性」に関する根本的な誤解があるのではないか。そしてその誤解によって世の中が動いているんじゃないかなと思う。だから変態と放火魔は、それらの異常が齎す社会不安が紋切り型に処理される点で、似ている。もちろん変態を許せるとか、逆にその罪がもつ重さ以上の不必要な処罰が必要だとも思わないのだが。捜査当局がこの異常の紋切り型の理解という罠にはまりこむことで、犯罪心理学や犯罪社会学との上手な連携ができていないことのように思われる。