フレイザー『金枝篇』拾遺

どこかに起源があるというのは「伝播学説」という主張で、現在では否定されていますね。レヴィ=ストロース構造主義のように、神話的な思考は、どの時代、どの民族にもあるというのが今日ひろく受け入れられている主張です。ただし、この主張の基本となっているレヴィ=ストロースじしんは、神話そのものが要素に解体され(神話素)、これらが構造体をなし、それどころか、神話は私たち(=人間)をして、神話を語らせ、展開させ(=構造を変化させ)、未来の人に伝えていくという機能すらもつ、という。つまり、神話のほうが人間にとっての主人で、私たち人間は、神話に従属している存在らしい。荒唐無稽だが、考えてみる必要のある仮説。そのようなレヴィ=ストロースからみれば、信虎氏のような「神話が人間の外側にあって、神話を伝えることができる」と見方は、神話にとっては不遜な考え方のようです。伝播説を否定する古典、ジェームズ・フレイザーは『金枝篇』という王殺しの神話から初めて神話や信仰について論じた古典。