「HIV陽性者の責任」論

日本ではハンセン病対策が社会防衛論にもとづき「らい患者」を差別してきたことに関する事実認識があったので、エイズ予防法の立法化には法案立案者の間で社会防衛論のカラーをどれだけ少なくするのかという議論がありました。血友病の非加熱製剤による感染者の増大という日本固有の問題もありました。渡部昇一による血友病者へのスティグマプロパガンダがそれ以前にあり、さらにHIV感染者という医原病由来のスティグマもありましたね(初期の非加熱製剤感染者が性感染と同じ扱いをされたくないと主張したのも、その二重のスティグマの犠牲者からみれば当然の反応でした)。このような日本の「特殊」な歴史的文脈のなかで、欧米の生命倫理学の観点からの「HIV陽性者の責任」論をニュートラルにとらえることはできませんね。たぶん彼らの関心は、感染のリスクを負ったものに生じる責任だろうと思います(間違っていますか?)。もし、そうだったら、「HIV陽性者の責任」倫理とは、かつてのノーブレス・オブリージュnoblesse oblige)に似たものであり、HIVへの感染は、人間を(倫理的に)より高潔なものにすることを〈社会なるもの〉から要求されるという、社会的役割属性の「啓蒙主義的向上」という観点から考えるとどうでしょうか?かつてT・パーソンズは病人役割論などで社会的義務からの解放という特権性を協調していましたが、僕は、病人は(嫌な役割を不可抗力的に引き受けるわけだから)常人よりも社会的に地位が向上するというモデルもありかな、とは思います。