保健・医療にかかわる公共空間

20世紀後半から今日にいたる加速化するグローバル化のなかで、多くの国民国家は人びとの生存に大きな関心を示しながら、近代医療を拡大し彼らの身体的、精神的な保健を推進するために積極的に関与し制度的な整備を進めてきた。他方、各地ではそうした近代医療ヘゲモニーの拡大とそれに基づく保健政策に対して、ローカルな知識と実践のシステムとしての民間医療(民族医療、伝統医療、代替医療などを含む)の再評価や「復興」の動きも顕著に見られるようになった。これまで人類学研究は、災厄、病の観念やそれに対する治病としての民間医療などを人びとが生活する社会の複合的全体のなかで理解するとともに、それらがいかに近代医療や保健政策と関連し、対立し、あるいは相互に補完しているかを解明しようとしてきた。
しかし今日、多くの社会が直面しているのは、近代医療と民間医療との関係性のみならず、人びとがいかに自らの生き方を考え、生存のためにニーズを表明し、どのような医療や保健の慣行やサービスを活用できるかといった課題である。そうした生存のニーズは自然的に与えられた普遍的なものではなく、特定の人びとの集団によって言説をとおして解釈され、戦略的に提起される。したがって人類学は、国家が主導する近代医療や保健制度の展開と変動に注目するとともに、それらが生命と生存に基盤をおく人びとの考えや実践と交錯し交渉する場としての公共空間の実態を解明しその可能性を考えなければならないだろう。このような問題設定のもとに、本研究はアジアおよび中央アメリカの国民国家における近代秩序の重要な領域である保健・医療に焦点をあてながら、特定領域研究のテーマである公共空間創出の課題に寄与することをめざしている。
保健・医療にかかわる公共空間は、グローバル化のもとでの社会経済発展にともなう国民国家の新たな統治の展開のなかから生まれてきた。とくに20世紀末以降、世界保健機構(WHO)の主導のもとで進められてきた各国の保健改革(health reform)は保健・医療行政のもとで、国民が自己責任において健康管理すべきことを強調してきた。このような国家の公的資源としての健康を管理するシステムは、他方で新しいかたちの民間医療運動、セルフヘルプ・グループやさまざまなボランティア住民運動・ネットワークを生みだすことになった。本研究ではそれらのプロセスをつぎのような三つのテーマを立てて研究を遂行する。
1)近代医療システムと民間医療・伝統的保健システムとの関係
2)国際保健・医療開発、保健改革と人びとの生存のためのニーズの関係
3)保健・医療にかかわるボランティア住民運動、ネットワークなどの公共空間の創出
1) の研究テーマは従来の人類学研究の方法論的枠組みに沿うものであるが、本研究はさらに2)、3) のテーマを追究することによって人びとが現実に直面している保健・医療の問題にアプローチする。これらをとおして保健・医療の専門家、地域住民や貧困層、女性、少数民族集団などマイノリティの人びとの問題解決の現場に、研究者が直接参加し、彼らとともに思考し、公共空間の新しい価値を創りだすところに本研究の大きな特色がある。
これらのテーマのもとで調査研究する場所は、中央アメリカのグアテマラホンジュラスキューバ、アジアのタイ、インドネシア、マレーシアなど広範な地域にわたっている。これらの地域の多くは近年保健改革が急速に進展するとともに、さまざまなタイプの公共空間が形成されているので、比較の視点から本研究のテーマを追究するうえで重要な位置をしめるのである。
研究の遂行においては、現地でのフィールドワーク、資料収集、現地研究者・関連機関との研究打ち合わせなどを、それぞれの分担課題にしたがって実施する。それらの調査研究結果を研究分担者のあいだで共有し相互的に関連づけるために、国内での研究会を開催する。本研究が目的とする保健・医療の公共空間にかかわる研究領域は世界的な視野で見た場合、いまだ端緒についたばかりの段階にある。そうしたなかで本研究の成果を国際的に公表し新しい研究領域として確立するために、外国人研究者を招へいし特定研究の他の研究班との協力のもとで国際ワークショップを開催する。
本研究は、研究対象の人びとが公共空間を創りだすプロセスを記述分析するだけではなく、人類学者、医療研究者や社会科学者がそこに参加することによって学術的に、また社会的にも貢献できる新たな研究領域の開拓をめざすことになる。