アナクロ人類学者の弁明

 さて、僕個人は、自分の青春時代を見るようで、懐かしいやら(時代文脈が異なるという点で彼および私自身に)アナクロニズムを感じたりもしました。
 また、俺(=御自身)は自由だと表現しながら、やっぱり就職(定職)のことは気になるわけで、ほっこりしたYさんの楽しい講演会にも共通するペーソスのようなものがあることをつくづく感じました。自分で完全に自由だと思っていることが、実はきちんと限界(=社会的拘束性)づけられているわけで、問題は、その自覚や、限界づけられた中での悪あがきをしている(見えない)人たちの存在にも逆に気づかされる結果にもなりました。
 ただし、これはむしろ人間としての社会参画をめぐる議論で、Zさんが冒頭に紹介し、また最後にも触れられていたような、文化人類学者になりそこね/そうでないという判断をめぐる主張は、現今の文化人類学のあり方をめぐる学問的議論とそれほどコアの部分で関わる問題ではないように、つまり文化人類学者としてのそれぞれの自覚の問題ではあっても文化人類学という学問そのものの問題を論じたとは思えないような気がします。
 なぜなら、俺達は未開だとか文明だとは関係なしに、モースの独特な(sui generis)所論を議論するのであって、彼が(論文ではなく本という)著作を残さなかったことなど、はっきりいって僕にはどうでもいい問題だし、モースの情熱を生き方の中にみるZさんと違って、論文の中にモースの情熱を読み込んでも一向にかまわないのではないかという気がします。学生に文化人類学の内容を伝える時に、人類学者の伝記は、文化人類学の思考法を伝達するための手がかりであって、伝記的事実を学生に伝えることではないからです。(逆に民族誌に登場する名も無き人たちの生き方と関連づけて文化人類学者を活動を知ることは、文化人類学を学ぶ重要な手がかりにはなるとは思います)
 それよりも参集された若い人たちの雰囲気は、H大学でつきあっている大学院生の人たちとそっくりで、自分がもう「過ぎ去った人類学者」ではないかと感じることしきりです。それはそれでなかなか悲しいもんです。――僕と同じ世代だけどMさんのようには誇り高く連中にコメントできないなという感じでした。年寄りにも多様性があるのですね。