政府の役割は市民のひとりひとりに自分たちが「自由であることを強制

自由に生きれて

自由には2つの種類があると、アイザイア・バーリンは言います。消極的自由と積極的自由の2つ。
(1)消極的自由は「〜からの自由」です。
例えば、いま監獄に置かれている、全体主義の政権にある、学校の中で勉強させられている。そのような拘束から逃れる自由です。これは、今、自分は自由ではないという状況認識があるものです。しかし、そこから解き放たれた時に、自分がどのような存在であろうとするのかという想像力が働かされない。なぜなら「今、自由ではない」からです。その意味で消極的自由と呼びます。
(2)積極的自由は、なんでもできる、可能な存在になると、想像された自由(=人間の状態)です。
啓蒙主義が説く人間の潜在的可能性を主張する「人間は自由な存在である/あるべきである」というのがこれ。しかし、これを実践することも想像することも、本当は可能かどうかということには多くの議論や疑問がある。私は宇宙人になる自由があると主張したとしても、宇宙人に地球人が含まれるなら自由どころか、もうなっているし、地球人以外の宇宙人になる自由があるとしても、まず物理的に非現実であるし、宇宙人という社会的承認をどこからえるのかという課題がある。そもそもそんな自由を主張してもなんの意味があるのか、よくわからない。バーリンのいう積極的自由とは、どうも人間の能力や資質あるいは権利付与には重要な概念のようだが、哲学的に考えるとその理解を得ることは極めて困難だということです。
ルソーは『社会契約論』の中で、政府の役割は市民のひとりひとりに自分たちが「自由であることを強制されている」ことを確信させることにある、と言ったそうな、この主張と積極的自由の問題はどうも深く関係しているようだ。
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/120605J=J-Rousseau.html