てっちり河豚料理的手法の研究

 デカルト『人間論』の読書、壮大な法螺の連続(例:動物精気の粒子の大きさの議論など)で笑いが止まらない、ほとんど妄想のこの産物は、300年前の科学を今日的基準で「評価」することの困難さを感じる。つまり、これまでの哲学者の読書というものが(思想史を経由する前は)いかに出鱈目かかが分かる試金石になる本。
 トーマス・クーンが、アリストテレスの力学理解の困難さについて言っていることと同じことです。
 傑作なのは、身体のどの部分にもある「静脈の弁」についての機能的説明なのである。デカルトによると、これはすべて抹消における神経の働き――中枢にいけば神経を制御するのは「糸」が伸展により信号を伝える――を制御するものだと見なされている。『人間論』白水社版・著作集4巻285頁
 デカルトの認識論は哲学的に凄くて、解剖学はナンセンスだという恣意的な取捨選択判断は、デカルトの科学的業績の、おいしいところ/やばいところを好き勝手に調理する、まさにてっちり河豚料理的手法。デカルトの哲学の修辞の変化を、スコラ哲学的表現や異端審問との緊張関係で論じた、林達夫(1939)の批評「デカルトのポリティーク」の水準を、現代の哲学者も医学者も、まだ全然超えていないことがまるわかりなんですな。俺自身の猛省の材料でもある。
論理主義が現実の観察を誤りを齎す例としては、狂犬病にかまれた患者は、噛まれた時の犬の像が脳まで運ばれて、やがて尿中にそれが現れるという「メカニズム」を説明している。『屈折光学』5部、AT VI p.129