ハンナ・アーレント年譜

ハンナ・アーレント年譜
1906 10ドイツ・ハノーファー郊外にて生まれる
1909 ケーニスベルグに移転
1913 父・パウル死亡
1918 レーテ評議会結成(ドイツ革命)
1920 母マルタ再婚
1924 大学入学資格試験に合格、マーブルグ大学に進学。ハイデガーと会い哲学を学ぶ。ハンス・ヨナスと友人となる。
1925 フライブルグ大学で一学期間フッサールに学ぶ
1926 ハイデルベルグ大学でヤスパースに師事
1928 アウグスティヌスにおける愛の概念で、学位論文で博士号。クルト・ブレーメンフェルトと出会い、シオニズム運動に関心をもつ。
1929 ギュンター・シュルテンと結婚(彼のいとこはヴァルター・ベンヤミン)。『アウグスティヌスの愛の概念 』を公刊した。しかしハビリタチオンがユダヤ人に認められず、ドイツでの教職の希望を失う。
1931 フランクフルトに移転。カール・マンハイムパウル・ティルリッヒの授業に親しむ。
1933 ドイツ帝国国会議事堂放火事件、ヒトラー政権掌握。アーレントは、反ナチ運動に入る。フランスに亡命する。
1935 「ユース・アーリア(Youth Aliyah)」(パレスチナ移住のための支援組織, 1933年創設)に加入(→Youth Aliyah:http://en.wikipedia.org/wiki/Youth_Aliyah
1937 ギュンター・シュテルンと離婚
1939 9月ドイツのポーランド侵攻、第二次大戦はじまる。
1940 マルクス主義者ハインリッヒ・ブリュッヒャーと結婚。フランス領内にあるギュル(Gurs internment camp)難民収容所に収容される。この収容所は、スペイン内戦崩壊後のフランコに協力したドイツに対抗してその前年に作られたが、1940年以降は、フランス国籍以外のユダヤ人を収容する施設となった。6月フランスの敗北により収容所から解放される。
1941 夫および母マルタとともにアメリカに亡命。1945年まで、ドイツ語新聞"Aufbau" のコラムを書く。また、the Commission of European Jewish Cultural Reconstruction の研究グループを組織する。
1945 ドイツの降伏。「シオニズム再考」を執筆。ドイツに帰国し、ユース・アーリアの活動に協力ヤスパースの妻が、ユダヤ人であっために、彼とより深い親交を結ぶ。
1946 ショッケン出版社の編集に携わる(1954年まで)。メアリー・マッカーシー( Mary McCarthy)と親友になり、生涯の友人になる。「実存主義とはなにか」を執筆。
1948 母マルタの死亡
1950 アメリカの市民権獲得(仲正 (2019:225)では1951年に取得)。
1951 『全体主義の起源』を刊行。
1952 マールブルグ大学、ハイデルベルグ大学で講演。
1954 イスラエルパレスチナ人に対する)国籍剥奪法?、アーレント強く抗議。
1958 『人間の条件(The Human Condition)』を公刊。
1959 プリンストン大学教授。ハンブルグ市のレッシング賞受賞。『ラーエル・ファルンハーゲン:あるドイツユダヤ女性の生涯』を公刊。
1961 エルサレムに飛びアイヒマン裁判を傍聴。
1962 交通事故に遭遇。アメリカ芸術科学アカデミー・フェローに選出。
1963 『革命について』刊行、『エルサレムアイヒマン(Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil )』を公刊。シカゴ大学教授(〜1975)
1964 アメリカ芸術文学アカデミーの会員に選出。
1966 ミルトン・コトラー Neighborhood government, 1966(ヤング=ブルーエル 1999:538)出版。Naumann, Bernd. 1966. Auschwitz. New York: Frederick A. Praeger.に序文を書く。
1968 ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ教授。『暗い時代の人々(Men in Dark Times)』刊行。
1969 ヤスパースの葬儀に出席
1970 ブリュッヒャー死亡。『暴力について』刊行
1971 『政治における虚偽』刊行
1972 『共和国の危機』刊行
1973 「思考」についての講義(スコットランド・アバディン大学)→『精神の生活』
1975 デンマークソニング賞受賞。12月心臓マヒにて死亡(69歳)。ブリュッヒャーと同じ
1978 マッカーシー(Mary McCarthy)編『精神の生活』刊行
1982 『カントの政治哲学講義』刊行。
2011 Elisabeth Young-Bruehl(アーレント伝の著者)死亡。