戦争で死んだすべての人たちのために

 戦闘行為を、相手を殺傷することを目的とする(どちらかというと近代的でかつ野蛮な)戦争概念として〈のみ〉理解してはいけません。古代ギリシャでもメソアメリカでも(そして植民地主義的な侵略)軍事組織の編成と戦闘とは、戦利品の獲得や征服による捕虜調達と奴隷化――アステカではそれを人身御供に使うという手の込んだ殺傷(供儀)目的に使ったが――にあったわけです。殺傷が自己目的になる戦争は、むしろ近代の発明――とりわけ大量殺戮兵器の発明とそのほとんど耽溺に似た利用――以降だといわれている。ポスト冷戦後の「民族浄化」という用語の発明もそうである。
 戦争行為による殺傷はその帰結であり、近代の強制収容所(絶滅を目的とする)や戦闘行為に関連した大量の民間人の殺戮は、どこかからそれを至上命題とする「異常」でいて、それ自体非常に合理的な作業があったわけだ。その意味で、敗戦にせよ、「光復」にせよ、人類全体にとっては毎日が記念日のようなわけで、一年に一度のこの日だけに「靖国主義者」になって人様を糾弾する野郎ってのは、まったくもって理解し難い。鎮魂するなら毎日するだけではなく、毎日死霊の念を裏切らない実践を日々積まないとならないし、それを他の人に説得力をもって説いていかなければならない。咽に刺さった小骨のように、靖国というのは、どうでもいいにも関わらず、鎮魂の意味を、すべての人にかきむしる困った存在であるが、それは、これが消滅しようがさらに栄花をしようが、関係なく引き続く永劫の問題なのだ。