死のストリップショー

解釈・翻訳としての医療のアイディア(妄想?)に相も変わらず拘っている垂水源之介です。
医学書院の新刊翻訳本を広告をみていたら、以下のような面白いキャッチフレイズに出会いました。
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「がんと診断されたその瞬間から、患者は「がんサバイバー」になる
がんと診断された日を患者もその家族も忘れることはない−「がんサバイバー」とはがんを克服した人だけを指すのではない。がんと診断された時から人はサバイバーとなり、一生サバイバーであり続ける」。
出典:
http://www.igaku-shoin.co.jp/bookDetail.do?book=81871
また、奇しくも、神戸で先月開催された第17回日本緩和医療学会の記事が『医学界新聞』の最新号(2986号、2012年7月16日)のカバーストーリーなのですが、そのリード(ヘッダー)が「診断時から治療終了後もつづくケア」とあります。
出典:
http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA02986_01
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こう考えると、一昔前は邪道?あるいは余技?(ないしは秘義?)とされていた「緩和」ケアの技術的問題(=ハイデガーの技術論を想起させますが)は、いまや、当事者(=患者)ならびに潜在的当事者をも巻き込んだパブリックドメイン化しているのが、緩和ケアの実態なのではないでしょうか?
こうして、痛みや苦しみの概念は私的言語に近い扱い(そうウィトゲンシュタインですね)から、公的な扱いへと拡張されることで、緩和ケアもまた時空間において「拡張していく」(膨張宇宙論みたいですけど)傾向があるのではないかとも思われます。
まるでリチャード・ドーキンスの書名『延長された表現型』ではないけど、がんサバイバーの書籍のさきのキャッチフレイズをみていたら、もはや緩和ケアというのは、死に行く本人の問題というよりも、その当事者を管理し、見守る治療者のみならず治療者を包摂する社会全体の問題――すなわち延長された緩和ケアこそが、現代医療そのものである――でもあるような気がしていきました。
死のポルノグラフィー(ジェフリー・ゴラー)というよりも、死のストリップショーという感じですかね。
もしそうなら、陰鬱ななかで実存的な死が特権化されるよりも、明るい解放的な雰囲気のなかで死人がエージェントして振る舞い、みんなに迷惑をかけながらも存在感を誇示しつづける社会というのも、死臭に辟易しながらも、まだしも(未だ出会ったことがないという意味で)ワクワクするような感じもします。――この妄想はトミー・ジョーンズ監督『メルキアデス・エストラーダの三度の埋葬』を観たせいかもしれません。
腐敗が進みそうな盛夏を感じさせる大阪より