この場合のヤマアラシはクレイマーなのか?

ヤマアラシモグラの家族
厳しい寒さをしのぐため、一匹のヤマアラシモグラの家族に冬の間だけ一緒に洞穴の中にいさせてほしいとお願いしました。モグラたちはヤマアラシのお願いを聞き入れてくれました。けれども、その洞穴はとても狭かったので、ヤマアラシが洞穴の中を動き回るたびに、モグラたちはヤマアラシの針に引っ掻かれてしまうことになったのです。ついにモグラたちはヤマアラシに洞穴から出て行ってくれるようにとお願いしました。ですが、ヤマアラシはこのお願いを断りました。そして言ったのです。「ここにいるのが嫌なんだったら、君たちが出て行けばいいじゃないか」(出典
 ローレンス・コールバーグへの批判で、キャロル・ギリガンが取り上げるのは、ケア倫理あるいはケア倫理概念の形成におけるジェンダー差を考慮していないということなのだろうか? そもそもコールバーグの質問が「病気の妻」に対する「最愛の夫」の行動選択におけるジレンマということへの「根本的な疑念」だったのではないだろうか。そう考えると、ギリガンがケアの倫理になんらかの「性別」をつけようとするという、これまた紋切型のギリガンへの批判も的外れのような気がする。
 ジェンダーの二元論で社会生活が営まれている以上、――そのことの当否という道徳的判断はともかくとして――倫理の社会的配分に「性別」のレッテルが貼られることは不可避である。それよりもむしろ、西洋近代社会――より限定的にはちょっと前のアングロサクソン的な古き良き白人支配の現代アメリカ社会――の若い男性は、ケアの倫理について供給する側として育てられるよりも需給される側として育てられるのだ、という事実である。このように男のリゴリズム的なジェンダーヘゲモニーが確立している社会では、その反対側のジェンダーや、その二分法から排除されたオカマ(queer)は、ケアの倫理を供給側として「社会的身のこなし」を洗練させてゆくほうが「戦略的に」有利だという批判的判断力が、面白い倫理的判断のジレンマで考察しようとした両者に(コールバーグにもギリガンにも)欠落しているということなのだ。女性の本質的特性ではなく、社会的陶冶のジェンダー的差異が重要であり、そのことがどのように再生産されるかということについて、配慮がいかないことが、心理学の悲しい(客観主義の)運命かもしれない。