かたきであってもだいじにしろ!

かたきであってもだいじにしろ!(ルカ 6:27-36)山浦玄嗣

「俺の言葉に耳を傾けているお前さんたちに言う。敵(かたき)であってもどこまでも大事にし続けろ。お前さんたちを嫌っている者たちにも親切を尽くし続けろ。公お前さんたちに災いを祈っている連中によいことがありますようにと願い続けろ。お前さんたちをいじめている者たちのために何をしてやったらよいか教えてくださりませと願い続けろ。お前さんの頬(ほほ)を叩く者には、もう片方の頬を差し出し続けろ。お前さんの上着を奪おうとする[追い剥ぎのような]やつには、下着も断るな。誰でもあれ、くれという人にはくれ続けろ。お前さんの持ち物を奪う者に、返せ、返せと言っているのをやめろ。

誰かが自分にこうしてくれたらなあと思うことをその通りに人にもしてやり続けろ。

自分を大事にしてくれる人を大事にしているからといって、何か誉められるようなことをしているとでも思っているのかね、お前さんたちは? ろくでなしの罰当り者どもであっても、自分を大事にしてくれている人を大事にしているものだぜ。

自分によくしてくれている人によくしたからといって、何か誉められるに値することをしているとでも思っているのかね、お前さんたちは? ろくでなしの罰当り者どもだって、そのくらいのことはしているぜ。

返してもらう当てのある人に貸したところで、何か誉められるに値することをしたとでも思っているのかね、お前さんたちは? ろくでなしの罰当り者どもだって、返してもらう当てがあればこそ、ろくでなし仲間に貸すのだよ。

そうではなくて、敵(かたき)であってもどこまでも大事にし続けろ。人には親切を尽くし続けろ。返してもらうことなど何もあてにせずに、貸し続けろそうすれば、お前さんたちは必ずや大いに救われる。そうしてこそ、お前さんたちは神さまにとっての愛(いと)し子だ神さまは、恩知らずな者どもにも悪者ども情け深いお方でおありなさる

お父さまが太っ腹でお情け深くおありなさるように、お前さんたちもまた太っ腹で情け深くあり続けろ。」

マタイ 5:38-48, 7:12 参照
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この倫理を厳格に守るのが、シンプソン家の隣人であるネッドである。
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この箇所は、昨日の「セーフティネット論」で読み上げて、皆さんにお聴かせしました。期せずして、社会保障をめぐるベーシックインカムをめぐる議論で、受講生のあいだで激論が交わされました。そのなかでTAのY君が最後にまとめた言葉が印象的でした。それは、このルカの福音書の「かたきであってもだいじにしろ!」の、真逆の例、すなわちベーシックインカム制度を是認し、それを〈倫理的に逡巡することなしに〉受け取るためには、国民全体が、イエスが言うところの「罰当たりで恩知らずな悪者」――言うまでもなくホーマー・シンプソンです!――になるべきである、という結論が導かれることです。つまり、ベーシックインカム論に、我々がどこか(プチブル的な)違和感や反発を覚えるのは、自分たちが「罰当たりで恩知らずな悪者」になりたくないという気持ちと、国家というものに「太っ腹なお父さま」(文字通りパターナリズムの権化ですね!)という〈おいしい役割〉を与えたくない――国家はやはり市民によって管理されるべきという民主主義的な考え方の基本――人民の欲望なのではないかと……。だからベーシックインカムを、きわめつけの社会保障だと吹聴する連中は(右でも左でも)、人間の善行に対する超逆説的なイエス・キリストの処方箋が全然理解出来ず、また現実態であり、またそうでない人には可能態でもある「中途半端な善人」である人間の実相についての、深い思慮が欠けている、と言うことはできないでしょうか。あるいはアリストテレスの教えに倣いて、よき人とは「中庸の存在」なのだと言うべきなのでしょうか?