人類学の翻訳の概念にまだ拘り中

まだ(人類学者と医療者がおこなう)翻訳の問題に拘っています。
やればやるほど泥沼状態です。
でも、眼から鱗は、クラパンザーノではなく、ライティング・カルチャーの論集の中のタラル・アサド「英国社会人類学における文化的翻訳の概念」という「文化的翻訳」の概念の可能性の主張には、なんとなく光が見えてきました。
最初の、ゲルナー批判は(10年くらいに前に読んだ時もそうでしたが)正直言って、何を言っているのかさっぱりわからない。でも後半になってでてくる(ポコックの引用にみられる)、民族誌家がおこなう文化的翻訳と精神分析[家]の翻訳の比較や、民族誌家は(ベンヤミンの議論を踏まえて)作者と翻訳者の両方の性格を兼ね備えるという解説は腑に落ちます。ということが、アサドのいうところの言語の不平等性への気づきや、それに抗して脱=反=権力的に開かれたテキスト(=文化的構築物)にする可能性を拓くということもクリアになる。そしてこの最後の点が、ゲルナーはわかっていないというところで、ようやく前半の詳細な批判の意味がようやく氷解するという、巧みな修辞。
ところで翻訳者としての医療者はいったい何を翻訳するのでしょうか? 病気という実態(本質?)?、病人のありさま(その人個人の病態と普遍的な病態モデルとの照合という翻訳?)、あるいは人が病気になるという動態における、「病気」という社会的文化的構築=構成物(あるいはフィクション)とその人(=患者と呼ばれる)の過程の翻訳(=しばしば予後と呼ばれる)なのか?
診断(diagnosis)の語源は、L. diagnōsis, Gr. διάγνωσις, n. of action f. διαγιγνώσκειν to distinguish, discern, f. δια- through, thoroughly, asunder + γιγνώσκειν to learn to know, perceive. (出典:OED)となり、「あちこちに、綿密に、知ろうとする・知覚する」ことになり、翻訳プロセスの比喩だと〈あれこれ訳語の精査する〉という感じなのでしょうか?
というわけで、私の現在の座右にあるのが、川喜田愛郎の『感染論』(1979[1964])という訳です。
振出しにアサドに戻ると、邦訳の論文タイトルは「文化の翻訳」と翻訳されていますが、これは Cultural Translation がもとの言葉ですので、やはり「文化的翻訳」とすべきですね。なぜなら、上記のように「精神分析の翻訳」と対比されているのですから、翻訳行為は、さまざまな人間関係における知的で(生産的、ひいては政治的な)コミュニケーションだというアサドの〈真意〉らしきものを妥当に〈解釈〉すべきものなのですから……