ベンヤミン・ジョーク(笑える人は相当ヲタク)

冒頭の部分のパロディを披露します。みなさん、どうでしょうか?
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【原文】
ある芸術作品なり、ある芸術形式なりに相対して、それを認識しようとする場合、受け手への考慮が役立つことはけっしてない。特定の公衆やその代表者にかかわることは、どんなかかわりかたをするにせよ、道を踏みはずすことになるばかりではない。「理想的な受け手」という概念にしてからが、いっさいの芸術理論上の論議においては、有害である。なぜなら、その論議が前提としなくてはならないものはただ、およそ人間の存在ならびに人間の本質だけなのだから。したがって、芸術自体もまた、人間の身体的および精神とする――けれども、芸術はいかなる個々の作品においても、人間から注目されることを前提としてはいない。じじつ、いかなる詩も読者に、いかなる美術作品も見物人に、いかなる交響曲も聴衆に向けられたものではない。

【隠喩的パロディ】
ある医学的仕事(=医療)なり、ある医学の知的形態に相対して、それを認識しようとする場合、受け手である患者への考慮が役立つことはけっしてない。(医療を必要とされてきた)特定の大衆やその代表者にかかわることは、どんなかかわりかたをするにせよ、道を踏みはずすことになるばかりではない。「理想的な患者」という概念にしてからが、いっさいの医学理論上の論議においては、有害である。なぜなら、その論議が前提としなくてはならないものはただ、およそ人間の存在ならびに人間の本質だけなのだから。したがって、医学自体もまた、人間の身体的および精神とする――けれども、医学はいかなる個々の臨床実践においても、人間から注目されることを前提としてはいない。じじつ、いかなる精神医学も狂人に、いかなる解剖学的画像も見物人に、いかなる超音波診断も妊婦に向けられたものではない。
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 大昔に出た神谷訳の『臨床医学の誕生』が、新装で出ました。斎藤環が御丁寧に解説書いています。俺は陳腐になった神谷訳を後生大事に相変わらず再版するみすず書房の無神経がわかりません。configuration をゲシュタルトと翻訳したままだし、これにはショックですね。
 世の中には、神谷美恵子を神様のように崇める朴念仁が存在するので、なぜフーコーの神谷訳が困ったちゃんなのか、実例を示さねばなりません。またすでに物故した神谷の擁護するとするとフーコーのあの気取った書き方には、誰もが逡巡するのが当たり前で、その意味では本邦初訳としては、ものすごい力技であり、尊敬に足るものであるということを付言しておかねばなりません。非難されるべきは、神谷を神格化する朴念仁たちなのかもしれません!
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なかばグノーシス化した神谷訳
臨床医学的経験とは、西洋の歴史の上で、具体的な個体が、初めて合理的な言語にむかって開かれたことを意味するのであって、人間対自己、及びことば(ランガージュ)対〈もの〉という関係における重要な事件である。ところが、この臨床医学的経験は、たちまち次のように誤解されてしまった。すなわち、なんの観念も介在することなく、一つのまなざしが一つの顔と対面すること、あるいは眼の一べつ(クードーユ)がもの言わぬからだと対面すること、と考えられてしまったのである。この種の接触は、あらゆる論述(ディスクール)以前のものであり、言語(ランガージュ)という邪魔者のないものであって、この接触によって、二人の生きた個人が、一つの情況の中に《とじこめられる》とされる。しかもその情況は二人にとって共通なものであるが、相互的なものであるわけではない」(神谷訳 p.9)。

英訳
Clinical experience -- that opening up of the concrete individual, for the first time in Western history, to the language of rationality, that major event in the relationship of man to himself and of language to things -- was soon taken as a simple, un conceptualizad confrontation of a gaze and a face, or a glance and a silent body; a sort of contact prior to all discourse, free of the burdens of language, by which two living individuals are ‘trapped’ in a common, but non- reciprocal situation (pp.xiv-xv).

スペイン語訳(Francisca Perujo による)
La experiencia clínica -- esta apertura, la primera en la historia occidental, del individuo concreto al lenguaje de la racionalidad, este acontecimiento decisivo en la relación del hombre consigo mismo y del lenguaje con las cosas -- ha sido tomada muy pronto por un emparejamiento simple, sin concepto, de una mirada y de un rostro, de una ojeada y de un cuerpo mudo, especie de contacto previo a todo discurso y libre de los embarazos del lenguaje, por el cual dos individuos vivos están "enjaulados", en una situación común, pero no recíproca (pp.8-9).

英語からの翻訳

臨床経験――それは西洋史において最初の経験なのだが、具体的な個人が合理性の言語に対して開かれたのであり、そのことは、人間にとっての彼自身との関係、そして言語にとってのモノそのものの関係にとっての一大事だった。この臨床経験は、その後すぐに単純化されるように、ひとつの顔にひとつの眼差しを向けること、あるいはひとつの沈黙した身体にひとつの一瞥を向けることという、一種の概念化された対峙というものであった。それは、言葉=言語の負担から自由になり、共通に閉じこめられた2人の個人が、しかしながら相互にやり取りができないことにより引き起こされるという、すべての発話のやり取り(=言説)の先立つある種の接触=遭遇のことであった。

スペイン語からの翻訳
臨床経験――それは西洋史における原初であるが、具体的な個人が合理性の言語に開かれること、人間とそれ自身の関係、そして言語と事物の関係におけるこの断固とした出来事だった。この臨床経験は、単純な出会い(=対になること)によって、深く考えられることなく、ひとつの視線とひとつの顔(表情)によって、ひとつの一瞥と黙りこんだひとつの身体によって、すぐに採用されるようになるが、(それ自身は)あらゆるお喋りと言語の困惑から自由になった、それらに先立つ出会いの空間であり、情況を共有したなかで、ふたりの個人が「閉じこめられて」いるが、しかしながら相互交流もしないことによるものなのである。

この文章のフーコーの学説に基づいた合理的で可能な解釈
臨床経験は、西洋史においてその当時はじめて生まれた実践であった。その含意は、具体的な個人が医師による臨床経験を通して合理的に説明されることであり、それはあたかも人間が自分のことを意識して説明することや、観察にもとづいて言語を使って事物を記述するという点で、とても厳然とした(あるいは革命的な)出来事だったのだ。臨床経験は、それを受け入れた医師や医学生たちによって、現場で患者と純粋に出会うこと、ベッドサイドに行かねば臨床は始まらないと単純に理解されているが、そんな単純なものではない。臨床の現場は、医師と患者が「逃れられない」情況のなかでのみ生まれる固有で貴重な経験とみなされているが、実際には、医学的に統制された環境のなかで、予断と偏見から自由になれたと思いこまされる、つまり客観的な遭遇の空間ではあるが、実際には医師と患者は(思ったほどには、あるいは全く)コミュニケーションしていない遭遇の空間なのだ。

今から考えると後知恵だが、コンドルセマルキ・ド・サドなどが登場するので、フランス革命のエピステモロジー的転換や(彼の師の1人である)バシュラールの認識論的切断のような、ものの見方の断層――『言葉と物』でしつこく展開される議論――をこの時に先取りしているように思われます。