無難なコメントでお茶を濁し時間を本当に無駄にする

 私事になりますが、もう10年くらい前に似たような組織が依頼してきた複数の似たような国際会議開催基金助成金の関連の第1次審査をしたことがありますが、複数のライバルがよい案件を出していたら、審査員としては甲乙つけ難く、その場合は個人的趣味にもとづいて微妙なところで[メンバーの陣容よりも企画の魅力や年齢配置などで――僕は年喰って業績も十分ありそんなことしなくても招へいされるビッグネームがあると評価は低くしました――]針小棒大の差異を付けるものです。もちろん、コメント欄にそのような理由を付してですけど。
 問題は、審査の判定に際してアドバンテージの点数よりもディスアドバンテージが1つでもあると平均点がぐっと下がるのです。だから(一次審査員よりももっと賢くて偉い?)2次審査員は、それを多いに参考にして(グラント申請の詳細な内容もまともに読まず)無難な平均点的な判定をする傾向があるのではないでしょうか。日本人は奇矯、皮肉、ジョークなどのコメントをすることを物凄く畏れるので、国際会議などで座長を日本人がやるとギャラリーから見ると、こちらが恥ずかしくなるような無難なコメントでお茶を濁し時間を本当に無駄にします。むしろ誰も思いつかない駄法螺のほうが眼が醒めていいののに!。これ(=このタイプのエートス)は(勿論、個人的偏見ですけど)日本の審査制度における悪く機能するタイプの文化的バイアスで、日本の研究審査制度の構造的欠陥の1つだとは思いますが、こればかりは日本の研究エスタブリッシュメントの「脳移植」(ジョークですよ!)でもしない限りだめかなと思います――国会の時間切れで入れ替えの承認ができなかった、総合学術会議のこれまでのメンバーの「大先生」方のお顔をみてそう思いました。福島第一よりもタチが悪い……
【追記】
 私のようなチョー愚か者でまったくの小物と比するのはよくありませんが、ハンナ・アーレントの『思索日記』の中で、ビッグネームの物理学者が座長を務める米国政府の学術審議会に呼ばれて、彼女自身の手帳に似たようなコメントをしているのを見つけて、なにかほっとした記憶があります。