2011年12月8日書簡

前略
 まず最初に引用文から:
「ログにお書きいただいた記事を改めて拝見しましたが、私が問題にしているのは「人生の発達障害」ではありません。それなら隠喩として逃げ道はあったのです(それもどうかと思いますが)。「人生の発達障害『者』」です。人生の発達障害者=人生の失敗者、の意味に取れます。」(出典はこちら:本日確認済)
 あなたが御指摘のように「人生の発達障害者」も、「人生の発達障害『者』」も、音読すれば同じように聴こえますので、このことについて、どこに隠喩の力点がある云々は釈明するつもりはありません。まぎれもない事実ですし、そのように書いたことも認識しています。また、それが人間に貼られるスティグマである現実についても理解しているつもりです。このことにつき、このスティグマを、それが否定された対象かのように取り扱っていることも、その次の文「今では優良中古車みたいに、勲章」と書いていることから、明らかです。従って「人生の発達障害者=人生の失敗者、の意味に取れ」る蓋然性が高いことも事実です。それゆえ、多くの発達障害者の方々が否定されたと感じるのはあり得べきことであり、それを予見出来なかった自分に落ち度があることも事実です。また、仮にそれが隠喩であったとしても、「勲章」もらう人と、「スティグマ」を貼られるの、人間の価値評価における社会的差別の存在を前提として書かれているわけですから、その認識つき配慮がなかったのも、これまた事実です。
 そのため、このような誤解が他の人たちに対して二度とおこらないように、オリジナルのツイッターから削除することにします。これは、そのようなことで、御自身の心が傷ついたあなたと、その可能性が過去にあったすべての人に対する謝罪の気持ちからです。削除される対象は、すでに12月1日書簡で記載されている重複した呟きも含まれています。
 以上のような措置は、当然のことながら、あなたが納得すれば、それですべて問題解決したとは絶対に私は考えていません。むしろ、医療人類学研究の専門家として、私はあらゆる病気や病者に貼り付けられる社会的差別の廃絶を希求する人間として、このような措置とその記録が私たち以外の人たちの教訓になることを願っておこなうことの始まりに過ぎません。繰り返しの釈明になりますが、「私の真意は、そのような差別こそが廃絶すべきであり(医療問題の専門家として)相対化の篩に常にかけるべきであると考えていることにあります。それはウェブでの医療人類学辞典のさまざまな項目の中で主張していること」(出典:12月1日書簡)に些かのブレも変更もありません。
 ひょっとしたら、これまでの対話を拓くために、私はあなたが「こんなもので納得できない!この点はどうだ?」と御指摘いただきたいと思っているのかも知れません。私は、何度も申し上げているように、社会に伏在する不正義なる社会的差別や排除を許せない人間です。また、修辞と嘘は事実関係の把握にとってまったく別の言説行為であると考えます。そして相対化の篩という修辞を使うことで自己反省を促し、すでに習慣化している人間の行為や思考の働きを少しずつ変えない限り、社会的差別や排除をいっけん見えなくすることはできても、それらの〈再生産〉の可能性を根絶やしにすることはできないと感じます。そして、バツイチの評価の毀誉褒貶のように、社会的に正しく正当であると誰もが信じていることが、急速にその正当性を失い、短期間の間に真逆のものになってしまう、という社会的事実をも認めます。そのために、私たちは自らの正当性に対して常に反省し、自らの正しさや正当性を再検討し、考えなかった以前よりも変わってゆくことが必要だと考えます。そのためには、対話のスペースを確保し、腹蔵なく話す(エピクロス)関係でなければならないと思います。
 それゆえにこそ、私は自分が意識しなかった隠喩の使い方が、その隠喩の明示対象となるスティグマを生きる人に対して「心の傷」――これすら秀逸な隠喩そのものですが――を与えてしまった過失を深く恥じ入ります。たぶん、これはこの書簡を読むすべての人たちに皮肉にあるいは奇妙に聴こえる(=実際は読めるですね!)かもしれませんが、あなたが、私の立場や経験、あるいは思いを(困難な思考実験であっても)追体験した時に、私の「謝罪」の意味を分かってもらうことが可能になり、あなた自身の私に対する「赦し」が可能になるでしょう。これは私が、グアテマラで内戦期の当時の戦争加害者と犠牲者の魂と犠牲者の家族における「和解」(reconciliation)の問題について調査したときにカトリック教会の調停委員会が示した考え方から学んだことです。
 ながく諄くなりましたが、これが本日、夕方にいただいた冒頭のツイッターに対する応答になります。最初ツイッターで返答と書き始めましたが、字数がたらずこれだけのものになりましたことをお詫びします。時間を取らせますが、私は対話をつづける所存であることも御確認ください。
敬具
2011年12月8日  垂水源之介 拝
(この名前を名乗ることで、あるいはそのように私自らが呼んでいる主体で今般の事象を引き起こしために、あえてこの名を名乗らせたままであることも、お許しください)

【訂正】12月9日
文中の「「人生の発達障害者=人生の失敗者」と自己認識されている人」を「「人生の発達障害者=人生の失敗者」と認識されている人」と訂正しました。その理由は、自己認識だけでなく他者認識にまで拡張し、そのような認識をもつ人が、それを読んだ時に与える感情や思いがここで問題となっているからです。つまり、状況を認識する人の範疇を拡げ、その発話がもたらすさまざまな意味の可能性をも考慮することを言います。
12月14日
文中の「「それゆえ「人生の発達障害者…」…このことにつき(そのような悲劇が起こることを想定できなかった)私の配慮が足らなかったのも事実です」を「それゆえ多くの発達障害者の方々が否定されたと感じるのはあり得べきことであり、それを予見出来なかった自分に落ち度があることも事実です」と修正しました。元の曖昧さを取り除き、私の落ち度の範囲を確定することです。