2011年12月1日書簡

 前略
 私の書いた「人生を「まともでノーマルな」発達のストリーとしてみる世界観」というのは、私の人生観から(そういう世界観は)良くないという意味で書きました。人間は発達する存在ではなく変化する存在だということもこれまでの私の発言でもまた著作の中でも表現しています。つまり、正常な発達の概念はモデルであり、それ自体で良い悪いと位置づけすることから自由になり、その時代のその社会のなかで常に「そのことが本当に正しいかどうか」を吟味し続ける必要があると思います。そのような意識を私はもつべきだと考えています。
 また、スティグマの本質的な無根拠性についても、これまで書いてきました。他方で、社会的排除ではなくケアとして疾患や障害を「科学的に認定する作業」も必要であることも承知しています。差別のレッテルが文脈から外れて恣意的に使われ、差別の再生産に流用される悲劇についても認識しているつもりです。元々、バツイチ概念がマイナスからプラスに転じたことをスティグマから勲章になった隠喩の際に「人生の発達障害」と隠喩を使いました。
 これは世間に流通している「発達障害」がスティグマであることを前提にして発言しています。脱逸脱化の矯正用語としての「個性」を使わなかったのは、それによります。もともとスティグマを隠喩として発言したので「そのことの差別性の認識が足りない」という御指摘であれば、そのとおりです。しかしながら、私の真意は、そのような差別こそが廃絶すべきであり(医療問題の専門家として)相対化の篩に常にかけるべきであると考えていることにあります。それはウェブでの医療人類学辞典のさまざまな項目の中で主張していることです。
 したがって、私のツイッター上のでの真意は、バツイチの価値概念の変化を示すことで、差別の無根拠性を指摘することにあります。また発達障害という概念も、医療化の中で文脈のなかで病理的な病理概念であることも相対化したいのです。何故ならば、私じしんも小学生時代に学習困難者(その当時にはADHDという概念はありませんでした)として他の児童の迷惑になるとされ授業から長く外されていたからです。
 私の知人の医師は、当時の病理概念であればMBD(微小脳機能障害)と判断されただろう、いや今でもそうかもしれないと指摘します。職業柄、病者や障害者の方、あるいは海外の内戦犠牲者家族と付きあいも多く、私はいつも当事者性ということを意識します
 以上のようなことを踏まえてもなお、あなたが自分が抱えてらっしゃる障害と、私が隠喩的に表現した「人生の発達障害(というスティグマ)」を同じものととらえて、前者の差別に繋がると感じたことに、私自身に落ち度があると、おっしゃるのなら、そのことについては釈明と謝罪したいと思います。
 最後に繰り返しになりますが、私がかつて今日で言うところの学習障害者(当時は病理概念がなくかつ付近に専門家もおりませでした)であった、そしてたぶん今でもそうかもしれませんが、という境遇から、私は他人事とは思えません。
ただし、それは当事者と共に、差別を廃絶する社会運動に繋がらないと、ただスティグマのレベルを再生産するだけに終わるのではないかと思います。そのスティグマの使用法について明瞭で、かつ論理的にそれをひとつひとつ誰にもわかるように論破していく必要あると思います。
 幸か不幸か、ツイッターは私のような集中力の欠ける人間には、文脈を十全に理解しないと分かりにくい意味不明、論理不明のものが沢山あります。私はそれをウェブ上の実験だと考えます。これは私の専門とする臨床コミュニケーションにおける対面教育とは根本的に異なる実践です。また、本学の臨床哲学は、同じ臨床という用語がついていますが、まったく異なる組織です。大学の組織の複雑さということも、この際、十分に御理解いただければと思います。
 私のポリシーから、メールや電子情報での意見交換では、今般のツイッターでのやりとりと同様、意見や見解の齟齬が生じるものです。面談はなかなか適うものではありませんが、問題の深さに鑑み、私はいつでも対応できる態勢にありますので、どうか御遠慮なくおっしゃってください。メールアドレスもホームページからのリンクでわかると思いますで、御面倒ですが手入力でお願いします。
草々不一

文中訂正:「私の自信に」→「私自身に」(12月8日)