一人称的存在論(ジョン・サール)

ジョン・サールによる一人称的知識の復権

「要点は、知識が客観的・三人称的・物理的事実であるかぎりは、その知識およぶ範囲からは必然的にとりこぼされてしまう現実の現象がある、ということだ。現実の現象とは、かたや色の経験であり、かたやコウモリの感覚である。これらは主観的・一人称的・意識的な現象だ。……私はある種の存在物(エンティティ)、つまり私の色の経験とある関係を結ぶ。コウモリはある種の存在物、つまりコウモリであるとはどのように感じることかという経験とある関係を結ぶ。世界にかんする完全な三人称的な記述は、これらの存在物をとりこぼす。それゆえ、その記述は不完全である。メアリーとコウモリの専門家の例は、その不完全さを示している」(サール 2006:133)。

"The real phenomena are color experiences and the bat's feeling, respectively; and these are subjective, first-person, conscious phenomena." (Searle 2004:67).
"I stand in a relation to a certain entities, my experiences of colors. And the bat stands in a relation to certain entities, its experiences of what it feels like to be a bat. A complete third-person description of the world leaves out these entities, therefore the description is incomplete. The example of Mary and the bat expert are ways of illustrating the incompleteness."(Searle 2004:68).


※ここでのメアリーとは、哲学者フランク・ジャクソンの思考実験で、色の知覚について物理学と生物学に関する完璧な知識をもつ、架空の神経生物学者メアリーは、白と黒以外の色が存在しない環境で育ったと仮定して、色に関する知識がすべてあるにも関わらず彼女の経験には「色がどのように見えるかという知識」は含まれていないという問題をもつ科学者(あるいは知識の寓意)のことである。
※またコウモリの専門家とは、哲学者トマス・ネーゲルによる思考実験で、コウモリの神経生理学について完璧な知識をもった研究者においても「こうもりあるとはどんなことか?どんな感じがするのか?」ということが取りこぼされてしまう現象のことをさす。ネーゲルは「意識の本質」とは、客観的な説明から抜け落ちる主観的な側面をも含むものであることをこの思考実験から指摘している。
※アレクサンダー・フォン・ユクスキュルが、それぞれの生物種には自分のとりまく環境に関する知覚から構成される環世界(Umbelt)があり、種に固有の相対性をもつということをすでに指摘している。これらの思考実験は、環世界間の〈本質的な違い〉と、種間を横断した認知の不可能性について表現しているが、このことははからずもこの種の議論をおこなう哲学者が、同一種内における主観的知識の本質性についてはなんら疑うことも、その必要性もないことを前提にしていることがわかる。彼/彼女らは主観の本質主義を放棄しない懐疑論者である点で[デカルトをいかに批判しようとも]心=意識の本質を前提にする二元論者である。他方、生物学者ユクスキュルは、そのような環世界間の〈本質的な違い〉を出発点にして、種間を横断した認知の可能性を具体的に模索しようとする点では、今日の認知科学の祖の一人であると言える。

(先を続けよう)

サールにおいて重要なことは、因果論的還元(causal reduction)と存在論的還元(ontological reduction)の区分である[サール 2006:160-164]。

「タイプAの現象をタイプBの現象に因果論的還元できるというのは、タイプAの現象のふるまいが完全にタイプBの現象のふるまいによって因果的に説明され、かつ、タイプのAの現象がタイプBの現象を引き起こすさまざまな力のほかに因果的な諸力をもたない場合に限られる」[サール 2006:160]。

「科学の歴史においてはしばしば存在論的な還元が因果的な還元に基づいて行われてきた。……意識の場合、因果的な還元を行うことはできるが、私たちが意識という概念をもつというポイントを失うことなく存在論的な還元をおこなうことはできない。……意識とは、固体性や液体性のように表面的な性質を備えた他の現象とは異なるのだ。……意識と志向性は、一人称の存在論を備えることにおいてのみ独特なのだ」[サール 2006:160-162]。

「現実の「物理的な」世界は、三人称の存在論を伴う実在(たとえば木やマッシュルーム)と一人称の存在論を伴う実在(たとえば痛みや色の経験)をともに含んでいると認めていただきたい。一人称的な実在はすべてその三人称的な因果的基盤への因果的に還元できる。しかし、そこには非対称がある」[サール 2006:162]。

「意識を消去的に還元することはできない。なぜなら、意識は実際に存在するからだ。また、その現実の存在は通常の認識論的な疑いを免れる。なぜなら、そうした疑いは見かけの現象と実在の区別に依存するからだ。そして、自分の意識状態がまさに存在するために、そうした区別をおこなうことはできない。意識を神経的な基盤へと因果的に還元することはできる。だが、その還元は存在論的な還元を導くものではない。なぜなら、意識は一人称的な存在論を備えており、もし意識を三人称の用語で定義しなおせば、意識という概念をもつことの意義を失うことになるからだ」[サール 2006:164]。
"[Y]ou can't do an eliminative reduction of consciouness because it really exists; and its real existence is not subject to the usual epistemic doubts, because those doubts rest on a distribution between appearance and reality and you can't make that distinction for the very existence of your own conscious states. You can do a causal reduction of consciousness to its neuronal substrate, but the reduction does not lead to an ontological reduction because consciousness has a first- person ontology, and you lose the point of having the concept if you redefine it in third-person terms" [Searle 2004:85-86]