先住民は人「食べずに[辛抱して?]実証実験」する

L=Sの人種と歴史の引用文で、大アンティル諸島民が白人の捕虜を溺れさし、腐らせるという話について。
以前、メールでもお知らせしましたが、H大学の名誉教授のHS先生に、オビエドだと指摘されて、これまでずっと調べてきましたが、いまだに見つかりません。
今日、朝からM博に来て、オビエドの原典を含めて、関連文書を渉猟してきましたが、現在のところ該当文章は見つからず仕舞いです。
そこで到達した私の結論は下記のとおり。
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もともとの原因はL=Sが出典を明記していないことなのですが、これは(N沢S一の超訳なみに)やはりかなり怪しい主張のように思われます。
その根拠。
1)ルイス・ハンケ『アリストテレスアメリカ・インディアン』他のエスノヒストリアンにあるように、初期のカリブ人に関する記述は喰人のものばかりです。先住民のどう猛=カニバリズムという図式から離れられないので、先住民が「食べずに[辛抱して?]実証実験」するということは、この歴史的文脈から考えにくい「異例」なことであるということ。すくなくともL=Sがあげているアンティル諸島人のこの「実験」は、西洋人を犠牲にする定番ではないことはご理解ください。つまり、異例なものの一般化はとても危険であることです。
2)植民者が同じ人間であることに先住民がさまざまな邂逅の過程を経て気付くという説明で有名なのは、メソアメリカ征服時の「馬と人間の合体」がそうでないと気付いて、先住民が戦闘時に恐れなくなったという話は比較的有名な定番話で、いたるところに存在します。しかし、この場合のエスノヒストリー的説明は「認知的転換」によって、戦闘時の人間観を変更するということです。つまりL=Sが言っている「実証にもとづく人間観の変更」ではないのです。
3)すぐ上の項目に関係していますが、L=Sが無媒介的に使う「実証によって同種の人間であることを証明したと考える」ことの西洋中心主義的な見方への疑問です。これはトマス・クーン以前の知的認識論に逆戻りしてしまうし、実証科学の精神が「そのまま」未開人にビルトインされているという主張は、L=S『野生の思考』や『今日のトーテミズム』で洗練した「変換」の議論にも、非常に遠いものになっています。
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というわけで、アンティル諸島民の行動の事例と、実証的な認識論を未開人ももつという主張に、この二次資料にもとづく引用は、きわめて危険であると言わざるを得ません。
これが私の結論。
付言すると、これはL=S一流の、ものすごい手の込んだ「反=オリエンタリズム的主張」のために、珍しい事例から極端に一般化する性向を示しているものと思います。『今日のトーテミズム』の訳者解説のところで、このすばらしい議論の展開は、結局のところ(L=Sが同書の中で批判したはずの)トーテミズム言説の最後の完成形態と、ポール・リクールが批判(揶揄?)したようなーーもちろん後にL=Sは途中経過だともったいぶって反論するけどーー主張に私は深く同意します。
結局ここまでくると、ともすれば観点主義の「人類学はスタイルの問題に帰結する」というライティング・カルチャー・テーゼに逆戻りするようで、私はとても警戒しているのですが、このような落とし穴に入らない議論展開を試みたいものですな。