熊祭りと神経生理学

たるみ より ひちごさんへ
おおっ!
どうもありがとうございます。
数日後に、「宗教と社会」学会で、人間と動物の関係から、(近代)宗教(理解)における人間中心主義的な発想を批判します。
その時に、アイヌの熊祭りについてのマンローの記述(下記)と、神経生理学の実験手続きにしちごさんがちょうど1年前にジャーナルクラブで発表した、論文の方法にある当該部分の記述について(その口頭発表の冒頭で)対照的に論じます。まあ、ありていにいえば「未開人」と「近代人の最たる科学者」の動物に対する手続きの対照的な扱いから、このような実践の類似性と相異性から、人間と動物の関係についてコスモロジー宇宙論的認識)について考えます。
たぶん、みなさんにとっては「完全にイカれている」内容かと思いますが、これはこれでなかなか重要なテーマなんです。
そのために、いまフッサールの議論について読んでいます。
とりいそぎ御礼まで……

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アイヌの熊祭りについてのマンローの記録映画から、セリグマン夫人が再構成したもの
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この熊は、人ぴとに捕らえられている聞は〈カムイ〉として崇められ、また優しく扱われて今でもかなり人に馴れています。一人の長老が祈りを唱えながら、この〈カムイ〉である熊の身体に酒のしずくを振りかけます。この後、熊は檻の外に引き出されることになります。頑丈でしなやかな、引けば締まるような輪にした縄を熊の首にしっかりと取り付け、艦の床下の穴から熊を引き出します。熊は捻り声をあげながら、それでも凶暴というよりはむしろ不意をつかれて驚いたような表情を見せながら、自らの終焉の場へと導かれてゆきます。アイヌの人びとは、こうすることで熊は幸せになれるのだと信じています。熊は棒の先などで突かれて刺激を受け、広い中庭を走り廻っています。また、熊はその身体に付いている悪霊をエゾマツの枝葉で払い清められます。周りでは、この場面を囃す唄が歌われ、伝承的な拍子の取り方は昔と変わることなく響いています(マンロの記録映画よりB・Z・セリグマン 2002:242)

熊がしばらくの間みんなの前で引き廻されると、何人かの男たちが特別に作った飾り矢(花矢)を熊目がけて射かけます。この飾り矢は先端がとがっていないので、熊を傷つけるようなことはありません。この後熊は、広場の中心に打ち込まれた杭につながれます。この行事が進められて行く中で、最後に選ばれた一人の射手が、自分の放つ本当の矢が迅速に熊に命中してすぐに射斃(たお)すことができるように、と〈カムイ〉に向かって祈ります。竹の先端をとがらせて作った一本、時には二本の矢は、熊の身体からその霊魂を送り出してやるために適切なやり方であると考えられています。射た熊の身体から出る血を地面にこぼすことは禁じられており、またその血がほんのわずかな雪で汚れることも許されていません。一人の長老が、去り行く熊の霊魂の無事を祈ります。前に熊の遺体を安置した祭壇を越えて何本かの霊力のある矢が空に放たれることで、熊の霊魂が去って行ったことが確認されます。(マンロの記録映画よりB・Z・セリグマン 2002:242-243)

この後、男の子たちがきそってその矢を拾おうと駆けて行きます。たとえ熊が既に死んでいたとしても、儀式のたてまえとして、もう一度二本の棒の聞に熊の首をはさんで絞め殺すしぐさを行います。熊を絞め殺すというこの儀式上のしぐさは、古くからの習慣に従って行われるものであって、現在ではおそらく、今熊を殺すのを見たばかりの見物人たちの緊迫感を解きほごすための一種の道化のようなものであり、さらには、熊の霊魂をこうすることで安らげてやるためのものに変わってきたのではないかと思われます。(マンロの記録映画よりB・Z・セリグマン 2002:243)

雌の熊を送る儀式の場合には、その遺体に首飾りを雌の熊を送る儀式の場合には、その遺体に首飾りをかけて飾ってやります。熊の霊魂に向かっては、敬意をこめた挨拶の儀を行い、人びとに恵みを与えてくれたことに讃辞を述べ、その霊魂を先祖のもとに送ってやる約束の言葉を唱えて捧酒を行います。こうすることで、その霊魂を満足させてやるのです。熊の毛皮を紳いだり解体する作業は、伝統密な儀式の約束にもとづいて行われることになっています。人びとは敬虔な態度で熊の生き血を飲むことにしていますが、この生き血は神聖な薬であるとされています。(マンロの記録映画よりB・Z・セリグマン 2002:243)

胴体から切り離されて毛皮の上に安置された熊の頭には、消え去ろうとしている霊魂がまだ留まっていると信じられています。この頭に向かって感謝の意を表すしぐさがなされ、讃辞が述べられながら捧酒が行われますが、このことが催されているあいだは、神聖な火が燃やし続けられています。そこは、アイヌの人びとの考える世界中の霊魂、つまり地上に存在する万物の生命の源となるもの、すなわち「宇宙を支配する神」が到来する場所であるとされています。ここには、熊の生き血を満たした椀がいくつか置いてあります。儀式が行われている間の作法として、その椀を最初に渡きれた者は、そこに満たされた生き血をすべて飲み干してはならないことになっています。その椀を受け取った者は、自分が少し飲んだ後、その椀をおし頂いてから自分の前に座っている人物に手渡して廻し飲みをします。先祖の神々に対しても、この生き血を満たした椀を供えます。女性たちも自分たち女系につながる先祖の霊に向けて供え物をすることになっています。(マンロの記録映画よりB・Z・セリグマン 2002:243-244)
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フッサールの身体性と内面性に関する議論(抄)
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「根源的な構成が行なわれる領野、すなわち経験においては、時空内でさまざまに現出する多くの事物が根源的に与えられているだけではなく、生物も根源的に与えられており、その中には人間(《理性的な》生物)も含まれている。とりわけ人間は二つの別個の所与の結合体ではなく、二重の統一体(Doppeleinheiten)すなわち、それ自身の内部で二つの層を区別しうる統一体、つまり事物と心的生活をともなう主観との統一体である。人間を統覚すれば、おのずから人と人との相互関係やコミュニケーションの可能性も与えられ、さらにすべての人間と動物にとって同一の本性(Natur)も与えられる。そのうえさらに、交友や結婚や団体などの社会的な結びつきも、比較的単純なものから複雑なものまで与えられる。これらは人間相互の間で創り出される結びつきである(ただし、ごく低次の段階の結びつきはすでに動物たちの間にも見られる)」。フッサールイデーン II-2』立松弘孝・別所良美訳、192ページ、みすず書房、2001年。

「さてそこでわれわれが共握(Komprehension)とその構成の諸能作をわれわれの諸考察の枠の中に引き入れると、それらの能作によって、以前は個別的に思惟されていた自我が〈彼にとっての〉諸客観のうちにあるものを〈他者たちの身体〉として把握し、そしてそれらの身体と一緒に他の自我たちをも把握するのである」フッサールイデーン II-2』立松弘孝・別所良美訳、208ページ、みすず書房、2001年。