ケア倫理:キャロル・ギリガン『もうひとつの声』

キャロル・ギリガン『もうひとつの声』における「ケアの倫理」はどうでしょうか?
ギリガンは発達心理学者で、男の子と女の子の、道徳概念の習得についてのジェンダー差に関心があるようです
たぶん、ローレンス・コールバーグのジレンマに関する研究などからでしょうね。下記の質問に君も考えてください。
「良男さんの妻は病気で、ある薬を投与すれば彼女の病気が治ることを良男さんは分かっていますが、その薬が高価なために買えずに妻は死に瀕していました。良男さんは、これを盗んででも妻を助けるべきでしょうか、それとも座して(=そのままにして)妻の死を待つべきでしょうか。」
上の質問は、私が改良したものですので、純粋にオリジナルを反映しているものではありませんが
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/070630naruhit01.html
ギリガンは、道徳的な判断をする際に男女のジェンダー差について次のように差異を指摘します。
男性は、なにが正義かという観点からその道徳的ジレンマに対処しようとする。
女性は、人間関係を保持し、それを強化しようとするように、その道徳的ジレンマに対処しようとする。
この「人間関係を保持し、それを強化しようとする」あり方をケアの倫理だとギリガンは言います。
またその倫理の内実は、「すべての人が他人から応えてもらえ、仲間として数えられ、誰ひとり取り残されたり傷つけられたりしてはならない」という主張(=論理)から出てくるものです。
コールバーグのジレンマでも、男性と女性の意見がまっぷたつに分かれることはなく、傾向性(例:男性は盗まないという道徳を妻を見放すという道徳よりも優先する)の問題で、ギリガンのケア倫理は特定のジェンダー(女性)に貼り付いているわけでないのですが、フェミ系(もちろん一部)から批判されてきました。
社会学文化人類学からは、そのように倫理的態度が異なったふうになるのは、その社会化――つまり育児や教育などの場で――の過程で、ジェンダーに期待されている道徳観に差異が形成されるということなのだと思います。
そのような男女差というよりも、両方のジェンダーに共に備わっている「すべての人が他人から応えてもらえ、仲間として数えられ、誰ひとり取り残されたり傷つけられたりしてはならない」実践を、とりあえずケアと定義するというやり方もあります。
勿論ヤノマミの嬰児殺しのように文化的な多様性が潜んでいる可能性がありますので、文化人類学的には「すべての人が他人から応えてもらえ、仲間として数えられ、誰ひとり取り残されたり傷つけられたりしてはならない」実践の普遍性と多様性(個々の特殊性)があると、私たちは留保をつけて考えるべきですけどね。
ギリガンの本はもう品切れで手に入りませんので、図書館などで探してください。

ギリガン、キャロル, 1986『もうひとつの声』生田久美子・並木美智子訳、東京:川島書店(Gilligan, Carol., 1982. In a Different Voice. Cambridge, Mass.: Harverd University Press.)