エピステモロジーとオントロジーの形式的峻別

分科会の趣旨説明書について
 17世紀の黎明期という書き出しは、人類学の分科会の査読者には理解してもらうことが難しいかもしれませんな。第四段落の人間と非人間の関係のうち後者は、19世紀には完全に捨象されて、すくなくとも当の人類学の領域では文明と未開の二項対立へと移行し、それぞれ社会(文化)と自然という対立とアナロジーされたのでは?_L=Sのユネスコへの報告にあるように、啓蒙されるべきは未開人のみと考える文明人(=西欧人)こそが、むしろ蒙を啓かれるべきだと、神話学を経由したL=Sは、神話論理のなかに恐るべき自然の論理(かつ文化の論理)をひつこく主張したのだではないだろうか。
 そういう意味では第5段落に生態人類学やアフォーダンスをもってくるのではなく、L=Sは、この17世紀以来の死せるマテーリアに、ふたたび生き生きとした存在論的価値――もはや観想の対象ではない――をとりもどしたことが書かれるべきである。そうなれば、次のディスコラ、ビベイロデカストロのL=Sの理念を「民族誌」とそれに照応する理論(=人類学)の形で確固たるものに鍛え上げていったという、物語が書けるはずでは?
 その次の文章「本分科会では……」というものが初めて出てくるが、これこそが冒頭に書かれないとならないパラグラフで、この趣旨を理解するために、これより上の歴史的経緯の説明が有効に機能してくるはずだろう。
 俺たちは理論的に議論を積み重ねてきたので、この前振りは魅力的だが、やはり門外漢には、なんでこんな議論をするのか?そのための正当化に1ページちょっとの前振りをつかうのは、ギャラリーに次のような誤解を招かれるおそれがある:「おれたちの高尚な議論がわからんやつはお呼びじゃない」あるいは「僕たちの議論をわかってもらうためにはすみません、これだけの歴史的経緯がひつようなんです、すみません」とこの分科会の連中は考えているのかな〜?、と。
 エピステモロジーオントロジーの形式的峻別も重要だ。なにごとも文化が規定するという文化人類学の紋切り型のテーマは、認識論の相対性の中で長く論じられてきた。ところが、モルガンの親族理論などは、類別的親族体系という未開人の認識論の単純な組み合わせという「発見」を生み出すと同時に、実際に、そのロジックで親族を再生産していくわけだがから、社会そのものを維持再生産していく存在論でもあった。ここでもL=Sは、人類学史において認識モデルではなく実体概念としての構造という概念をうちたてたわけであるから、我々が射程に入れている人類学のスタイルの検討に計り知れない貢献をしていることになる。
 じゃあ、オントロジーの意義を高らかに宣言したDやVdCの貢献であるが、これも論難者からは「おおそうでっか?でもある特定の社会の存在論様式という認識論について議論されているんでしょう?」と言われる可能性がある。人類学の解釈や理解の多くは、人類学者じしんの存在論的枠組みの検討をぬきにすると、多くは認識論の相対性についての議論に容易に回収されてしまう。俺たちは、そうではないのだと主張したいが、そのことを論理的にきちんと説明できるだろうか? あるいは、認識論に回収されないような存在論的意義は、どのような議論の展開においてある程度保証されるのだろうか? また、何をとりあげ、何を議論をすべきなのか? まじめに考えると謎が謎を呼ぶばかりだ。
 このような存在論を認識論中心の文化人類学の議論のなかで担保(=確保)するためのヒントのひとつは、先住民の人権、伝統的生態学的知識(TEK)、あるいはエージェンシーとしての先住民などの概念であり、開発人類学という、実体経済にかかわる財の生産/再生産という文脈のなかで考えるマリオ・ブレイザーらの議論であろう。TEKそのものを知財とみる発想は、ローカルノレッジという認識論中心的な知識と知識生産の取り扱い方――ギアツはローカルノレッジを法の運用と類比するが、ノレッジは結局操作の論理という射程のなかで終わっている――を超えて、政治的な力をもつことを意味している。ここでも、存在論的な視点の転換のレトリック(=人類学ならびに人類学者もまた開発のフレームのエージェンシーとして機能する)を使えば、理論/応用と、基礎/専門という認識論的な枠組みのなかで取り扱ってきた応用人類学が、近代のとんでもないモンスター科学であり、この科学の実態についての存在論的解明こそが、停滞しありきたりの上品な学問に収まっている人類学の未熟で野卑な姿を白日のもとにさらに、可能態にとどまっている、みなさんがお好きな「新しい人類学」の可能性を拓くことになるのではないだろうか?