アリ・ホックシールド「感情労働論」関連つぶやき(総集編)

マリリンの胸部間接撮影(階調反転)

感情労働論の名著ホックシールド『管理される心』石川・室伏訳、世界思想社をある理由で読み直しているが、世に数多ある本書への「批判」がいかに内容が薄っぺらく、この漢字四文字の片言隻句「だけ」で判断していることが逆に照射されちまう。ますますこの本が好きになっちゃった!
Performative actor as "Taxpayer" for greater social context & value in Everyday life - like an E. Goffman
 Twitterにおけるあるメンバーと〈対話〉を続ける努力は、対話者と一緒につくる島の共同体の成員であり続ける努力と似ていますねぇ…(島が複数あるのが面白い:そして隣の島の様子を眺めることができることも!)
 ホックシールド(2000:245)偉い!ゴフマンは内面化されている規則の逸脱が、外部標識化されている問題についてほとんど言及していないのです。
 ホックシールドが「制度はどのように人格に影響を及ぼすのか」(p.248)ともし仮にゴフマンに質問したとしたら、彼(後者)は「人格という観察不能の実体なきものを表象する無益」についてリプライするだろうな[もち私の推測デス]
 ホックシールドがライト・ミルズを超えているとすれば「人格の販売」に伴うことに「感情の管理」が随伴する現象についてまじめに考えたことだね。でもこの着想が、当事者の語りという[ゴフマン流に言わせれば]いささかあやしいドクタ・イグノランチアを社会理論化してしまう危険性も伴う。
 ダニエル・ベルをもじって言うと、ポスト工業化社会における労働のあり方は、人とのコミュニケーションが中心になるだけでなく、同時に周囲の機械とも相互作用以上の「コミュニケーション」が不可欠になるはずと……
 ホックシールドの議論は(マルクス主義の流儀に従って)感情労働は公的な賃労働の領域にあり「交換価値」をもち、感情管理や感情作業は私的領域において「使用価値」があるものときちんと区分している。この前提を混同したり、形式的峻別を理解せず、いい加減な「感情労働」論を弄する人が多いこと…
 また「感情労働」論の議論においてホックシールドは、その手がかりとして感情労働者のジェンダー不均衡や、不満や怒りの再訓練所での扱い方から議論を説き起こしている。彼女の議論の正当化には有用な観点だが、この点を抑えた論評をする人も意外と少ないね。
 1640年4月のある日、アムステルダムの貧しい一室で一人の男がピストルで頭を打ち抜き自らの命を絶った……と始まる清水禮子『破門の哲学』(1978)。ピストルで頭を打ち抜き自らの命を絶った男性はポルトガル生まれのマラーノで、その名をウリエル(ガブリエル・ダ・コスタ)でございます〜♪
  スピノザへのユダヤ教会からの破門は、ダ・コスタ(ア・コスタ)のピストル自殺から16年後の1656年7月とのことです。ダ・コスタの遺書=自伝は『人間的生活の一例』っていうタイトルらしいが、最近の研究ではドラマチックゆえに潤色もあるとのことですよ(ヨベル『スピノザ異端の系譜』人文書院, pp.67-78)
 たしかに深層演技(deep acting)を論じるゴッフマンは歯切れが悪くていまいちだった記憶があるが、どうもそれはゴッフマン自信が、それほど重要視していなかったこととも関連するかもしれないにゃ〜♪
 ホックシールド感情労働論はまっこと奥が深い!世に数多ある通俗的紹介つまり「客室乗務員は感情労働してます、看護職も同様、あ〜タイヘンだっ!」って単純な議論ではないということ。自己疎外や心の搾取が現代のサービス産業には多いという馬鹿な議論でもない。このワークに関わる現代社会論なんだ
 深層演技(deep acting)を労働現場で強いることは正当化されるか?という問題に組み直しても面白いな〜♪ [とまれその場合の賃金や労務評価はどうするんだろうか]
 やっぱり深層演技(deep acting)の概念にはちょっとついていけないなぁ。演技する自我と演ずるモデルを合致することで、表層的な演技にはない切迫感をもたらそうとするのだが、それだったら「再帰的演技」とでも名付ければいいと思うのだが…
 人はたとえ善人や正義の人であることに報酬をもらってたとしても、人間には常に腐敗や堕落への誘惑があるわけだ。だからその状態を続ける人はやはり(ある意味で)称賛に値する――俺は例えば「善良な」警察官などを想定しているのだが……
 ひぇ〜い!(現在の航空業界で起こっていること)クルーズ船のグレイハウンド化ね!思わずその通り!と膝を叩くね!いい表現だっ〜♪ (ホックシールド 2000:142)
 う〜んホックシールドの第6章末あたりになるともう、ポストモダンの『アメリカ航空業界の労働者階級の状況』風の描写になってくるね〜♪
 『ランダムハウス英語辞典』の用例には、女性=非合理・感情的、男性=理性的という用例が収載されている。なぜなら、それが社会のジェンダー的語用法の用例から取られたわけでランダムハウス編集部が[社会の反映だとすれば限りなく可能性はあるが]セクシストだからではない。マルコムX自伝を想起ね
 日本でもアメリカでもジェンダーアファーマティブな意識は最近、とりわけ知識人のあいだで「裏声で歌う」面従腹背的に導入されているだけだし、おまけに馬鹿な保守政党の議員や支持者たちがジェンダーフリーへの悪意ある非難とバックラッシュをもたらすわけだから遅々としているのよ
 でもね、ジェンダーフリーはもう公定イデオロギーとしては確固としたものになりつつあるからね。俺はまだまだっ!て思うけど、文句を言い続けるのはいつか実現できるだろうと楽観的にみてますよ。それよりもエイジズム(年齢差別、とりわけ高齢者蔑視)克服のほうがシンドイね
 ホックシールドをちゃんと読まない人たちの間では、バーンアウト(燃えつき症候)と感情労働は、しばしば関連づけられて言及されるが件の彼女(2000:214-215)はどうもそんな単純には考えていないようだね〜♪
 社会学者の石川と室伏は、ほんもの性(authenticity)を「本来性」って訳しているなぁ(ホックシールド 2000:217)。彼らの訳文はすばらしいのにL・トリリングのこの箇所は邦訳の野島先生に完全に軍配があがるね。というか後者の訳書ちゃと読んでいないな〜と疑念を抱くワタクシ
 出ました!偽自己の横行はナルシストが原因かという説(ホックシールド 2000:224)。この部分は修辞だけであまり説得力ないな〜
 たしかに、ナルシズムと利他主義(愛他主義なんてダサイ訳語やめれ〜♪ )の同時定立というアポリアのなかに、感情が人間関係のトレードや、ひいては商取引や対面サービスの重要な要素になってくる機構の一端は見えてきたが、これは到達点ではなく、ここが出発点になるのだろう(2000:226)
 なある!ただしホクさんのはELつまりwork ではなくlabor なんですよ。でも指摘アリガト〜♪>>>お師匠さまの渡辺潤は、Emotion WorkはゴフマンのFace Workに対置される概念で「感情労働」というのは誤訳なのではないか、と申しておりました