生死の境界と言説行為について

【生死の境界と言説行為について】
 カミングアウトが抵抗の言語だと?――たしかにそうですけど、カミングアウトはその声を傾ける人と聴く人が同時にいないと成り立たないので、ぼくは、抵抗の前に、まずアイデンティティの言語だと思いますね。アイデンティティが(新たに)形成されないと抵抗の主体にはなりえません。極端な例ですが、拷問する秘密警察の尋問官の前で「共産主義者だとカミングアウト」することは抵抗の言語になりえず(撞着語法に近いけど)「恭順の表現」を通して自分の生命を諦めるか(=共産主義者は死なないと治らないと拷問者は考える)、「棄教の表現」を通して権力のスパイとして生まれ変わり命乞いするか、しかありません。それもカミングアウト後に拷問者が何をするのかは、当事者はわからないのです。僕はそのような経験者にインタビューしたことありますので、生き残る=サバイブすることの意味が、その人の人生のなかでまったく違ったものになることもあることを感じました。命を懸けて抵抗する/変節しても命を優先する、ということの間には意外と共通点がありそうです。