奇形と差別と謝罪

【奇形と差別と謝罪】2013.05.21
 放射能汚染が人民の心の汚染現象にも拡大しつつある時「奇形児」なんて由緒正しい侮蔑語(abjective word)を再びよく聞くようになった。いや記号論的には「恐怖の言語(awful language)」と言うべきか?。勿論業界の人にはれっきとした学術用語、主奇形と従奇形がありそれを併せて合併奇形(combined malformation)云々など。俺達が糞餓鬼だった時――今は糞爺だが――は、小学校の先生たち(もちろんごく一部のイカレタ馬鹿教師)が生徒を闇雲に怖がらすために、根拠の乏しい法螺すなわち被爆地や実験場の住民から奇形児がたくさん生まれて、などと無責任なことを放言していた。俺達はTVのミイラ男のようなホラーと完全同一して、奇形ゴッコという、今だったら笑えないどころか、正真正銘嗤えない「無邪気な」遊びに興じていた。後になりホンモノのベト=ドクちゃんが出てきた時には米軍の枯れ葉剤の犠牲だから、俺達はベトナム側に勝手に共感し、奇形児には慈愛を、有責任者(=米帝)には怒りをなんて都合のよい峻別が可能だった。そんな差別と偏見と妄想に満ちた少年時代を送ると、差別感丸出しの当時の大人が悪くて、当時子供だった俺達は洗脳の犠牲者だけだと言えなくなる。今の流行りはPTSDになっちまったと専門家に診断を求めることだが、当時はそんな便法はなく、糾弾か謝罪かという暴力的な二分法しかなかった。そう考えると、俺達元糞餓鬼もまた、つくづく奇形の犠牲者を畏れ忌避する差別者の大人どもと全くの共犯者だったと思う。そんな俺達の心の奇形に気づいたのは、問題が沈静化して、大半の犠牲者が死に絶えた後だった。同時期に、国家や自治体も浮かばれない死人たちにようやく謝罪するようになる。