ダイアモンド女王の王国にて

Anna Tsing, In the Realm of Diamond Queen ノート

民族誌の書き方ではなく、問題の立て方である。
・情報の不均衡(民族誌家/インフォーマント?)
ケーススタディの問題
 マンチェスター学派のケーススタディ(社会構造を浮かび上がらせるための)/フロイトケーススタディ(典型例の提示)
 ケーススタディに対立する<物語>を考える。それには、一回性、固有性、解釈の多様性、生産としての消費などの特性がある。そして、著者はケースではなく、物語を提示する。
・ローカル、創造性、周縁性。著者は自己をそのように位置づけることによって自己を創造して行く。
・理論の採り入れ方が折衷主義的で雑多。特に最初の部分。
ジェンダーによって民族誌の読みはかわるのだろうか?。あるいは、女性(男性)しか書けない民族誌、女性(男性)しか読めない民族誌等など。たとえば、 Uma Adang の語りを使ってフェミニズム的関与が許されるのだろうか?。彼女は私と同じ闘いをしていると、著者が思いこむこと。あるいは、後半はUma Adang に引き込まれている。あるいは、彼女のフェミニズム批判とはなにか?
・(7章)エイリアン・ロマンス:女性としてのジェンダーの受容
・(8章)Uma Adang vs Induan Hiling: 前者はジェンダー意識(儀礼の時に男女の座らせ方の違いを認める)があるが、後者にはない。
・(9章)儀礼のときの女性:女性のシャーマニズム(p.269)
・文化とローカリティ
 ジェンダーエスニック/ポリティクス:二重に排除されるのではなく、一方では排除されながら、他方で権力をつける(empower)される。
・権力の源泉がない社会:この社会の平等性?:権力はつねに外部から導入される。
・文化を使わない民族誌の便法:著者は社会や文化という言葉を用いないで書く。本質論的な民族誌が書けない現在の状況。というのは、彼ら自身にエスニックな意識がないから(外部の外部?)。しかし著者は本質的なエスニック・グループとしても見ているふしがある(p.280〜)
イスラム:自己/他者の境界侵犯=病気。Banjarは自己と他者の境界を立て直す。病気とコスモロジー(pp.190-)。治療は男女のカテゴリーを超えることにある(eg.Induan Hiling)あるいは、Uma Adang のように、その男女の境界を受け入れながらそのカテゴリーを乗り越えてゆく。つまり和解(accommodation)でありながら抵抗(resistance)するような、バーバー的乗り越え??