民族問題(ethnic issues)と文化

mitzubishi2010-04-29

 「民族は客観的には定義できず主観的なものとしてしか存在しない」という主張はトリッキーで誤解を招く表現である。
 その理由1:主観すなわちアイデンティティとして定義しても、それは民族の定義の客観的な指標になりうるだろう。このことは客観/主観という二分法を相互排除的な用法として使用することに由来する誤り。あいだに〈社会〉という概念を噛まして両者を相対化する必要がある
 その理由2:このような説明の後のあとのスライドで登場するのはいわゆる政治学者お得意の「民族分布のマッピング」(例はフィリピンのモロ、クルドボスニア・ヘルツェゴビナ、中国など)である。このようなマッピングが可能になる前提は民族が客観的に定義できて、その民族の「棲息地」をこれもまた客観的にマッピングできるという信念に基づいている。もし主観的にだけしか民族を定義できないならば、そもそも地理空間上に民族の「棲息地」などマッピングできるわけがない。これも最初の説明が破綻している傍証だ。
 民族問題(ethnic issues)に絡めて、グローバリゼーションと「文化」について、2つの見解が述べられた、ひとつはグローバリゼーションによりそれぞれの民族の文化が均質化すること、もうひとつはグローバリゼーションが民族間の関係を対立激化するということ。これも現象の動態が大好きな政治学者の考えそうなことだ。
 経験的にはグローバリゼーションと文化には言及されなかったもうひとつのモードがある。文化というものがグローバリゼーションとは関係なくスタティックなまま維持される、あるいはそうなのだと現状を認識する立場もある。これは多くの文化人類学がフィールドワークに向かうときにもつ傾向(ヘクシス)である。
 文化的態度を維持する人びとの中には、人類学者の偏見同様、変わらないもの永続するものを「本質的な文化」であると信じるという現象がある。調査者をもつ文化像は、現地の人とそのような共同感覚をもち合意ができたものが古典的な民族誌の中に登場してきたスタティックなもの(=文化像)だったのかもしれない。仮にこれが虚構ないしは文化の一側面であったとしても、政治学者が考える文化は均質化するか対立激化するという現象やビジョンと、文化観という意味では同等に論じる資格があるように思える。