Was heisst Denken?

◎CyBorg Cafe #zero in Sapporo Exotic! Adventure!
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/Cyborg_Sapporo_flyer.html
有機体と有機的・全体論的な政治学は、ともに復活のメタファーに依存し、たえず産む性という源泉を要請する。ここで示唆したいのは、サイボーグが産む性以上に再生と関わっており、生殖基盤やほとんどの出産に対して懐疑的であるということだ。山椒魚は、傷を受けても....
――たとえそれが四肢の一つであったとしても――すぐ再生する。構造を修復し機能を回復して、とりわけ以前の患部においては、四肢を双生するというかじつに奇妙な局所的成長がみられるのだ。再生した四肢は、怪物的である。それは二重の四肢として力を発揮する。ところでわたしたちにしても、すでにみな、受けてきた傷は深い。だからこそ、復活ならぬ再生を求めるのだ。そしてそのような再生可能性が確保さじれてはじめて、ジェンダーなき怪物的世界への期待が、さながらユートピアを夢見るように織りつむがれる」(ハラウェイ 2001:114)。
◎GenTarumi
http://twitter.com/GenTarumi/
とほほほ・・・
ハイデガーによると、古英語のthencan「思考する」とthancian「感謝する」が共有するルーツがあることを言っているのは『思惟とは何の謂いか』で創文社の『ハイデッガー全集』の第8巻にあります。同社のホームページによると「本書は、フライブルク大学の1951/52年冬学期ならびに1952年夏学期の講義を収録する。第2次大戦後に行った最初の講義であるとともに、最後から2番目の講義でもある(最後の講義は1955/56年冬学期の『根拠律』)。「思惟とは何を謂うのか」の問いは「何が思惟を言い渡すのか」の問いを自らのうちに含む。第1部では、ニーチェにおいて形而上学の終りが名づけられ、第2部ではパルメニデスにおいて形而上学 の元初が回想される。 Was heisst Denken? (2002)」(出典)とあります。目次は「単行本版への前書き 第1部=1951〜52年冬学期の講義および講義時間の移行 第2部=1952年夏学期の講義および講義時間の移行 補遺(1951〜52年冬学期第九時間目の講義からの従来未刊行のテクスト一節/1952年夏学期からの講義されなかった最終講義(第12時間目))」です(→出典へのリンク)。
われわれは、熟思を最も惹起するものを熟思することを通じてより以上に適切に、いかにして、この寄贈に対して、すなわち最も熟思させるものを思考しうるという贈与に対して感謝できるであろうか。もしできるとすれば、最高の感謝こそが思考となるであろう。すると、最深の忘思とは思考しないことではないのか。そうであれば、真の感謝は、われわれ自身が贈与を持って来て、ただ贈与に贈与で報いるということに存するのでは決してない。純粋な感謝とは、むしろ、われわれが単純に思考すること、すなわち真に唯一与えられているもの、思考されるべくあるものを思考するということである」(Was heisst Denken? (2002:146)四日谷敬子ほか訳127-128ページ、1986年)
◎Ereignis
http://www.beyng.com/ereignis.html