ALS者が人工呼吸器をつける権利を擁護する

ALS者を不要な廃棄物とおもっている人たちが人工呼吸器を外したいために使う論理にはどのようなヴァリエーションがあるでしょうか?
(1)ALS者は悲惨な病気と元気な時から吹聴されるので、患者自身が元気なうちに呼吸器をつけるなと言っている(言わされている)。
(2)医療者が、個別の患者を前にせず、一般論として、呼吸器は悲惨である旨を吹聴して、イデオロギーをまき散らしている
(3)これも一般論で、回復の見込みのない人に呼吸器をつけることを無駄な医療あるいは資源の浪費だと主張するひとがいる
これに対しては、反対論者はどう考えるだろうか?
(1’)呼吸器つけて楽になって人はいっぱいいて、多くの人が、生きることの悦びを再確認しているようだ(経験的真理)。つけるために苦痛になるのではなく、ALSも健常人も生きつづけることには誰も葛藤するわけだから、両者のあいだに分業のような峻別をつけてはならぬ。つまり、呼吸器をつけることは悲惨というのは、当事者の経験から遠く、また実体験とは矛盾する。それゆえに、事前指示書は患者の権利を伸展させるものではなくむしろ制限するものに他ならぬ。
(2’)医療者も、個別の患者が呼吸困難に陥ったら、内省することなく(自動的に)通常の治療指針に則り、人工呼吸器をつけている。このことに対する違法性はないし、生命の尊厳にもとづく医療である限りなんの問題も引きおこさない手続きになっている。むしろ、そこで生命の生殺与奪を医師が行使することは、伝統的な医師の慣習から逸脱する。
(3’)無駄か無駄でないかという判断を、誰が、いつ、どのようにするのかということについて普遍的ルールを確立することはできない。ALSの人の身体の経過観察をすることが現代医療にとってかけがえのないすばらしいデータを提示する時代がくることを誰も否定することができない。むしろ、健常人であることが恥ずかしい時代だってくるかもしれない[この主張は多少奇天烈で多元的未来を前提にするものだから主張は弱いのでここでのメインの主張はあくまでも「無駄か無駄でないかという判断を、誰が、いつ、どのようにするのかということについて普遍的ルールを確立することはできない」である]。
あるいはこういうへそ曲がりな意見もあるかもしれない。
(4)全身が脱力状態になったALSには自殺する権利が奪われている。だから本人が死にたいと時に医学がその自己決定権を「擁護」してもよいのでは?
それに対しては……
(4’)近代法は自殺する権利を認めていない。もちろん幇助は犯罪である。すべての人に自殺する権利が認められていれば、ようやく自殺できないハンディキャップのある人に幇助する可能性の是非について考えられる。それがない以上、ALS者を健常人と別のものとして扱ういわれはないということになる。

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 続報

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とりあえず思うところを、思う分書きますよ...

>おおかたそんな議論ですが、当事者は呼吸器の装着も取り外しも本当に自分の意思でできるのなら、それがもっともいいのです。

当事者主権という馬鹿な概念が大手をふったのがそもそものまちがい(最初はそれなりに意味があったのだが)。
現在の多くの当事者主権の使い方は誤用。君の用法もそのひとつ。
インクルージョンで考えないとあきません。
でないと、上の自殺する権利となり、頓珍漢(もとの主張と方針を変えることになる)なものになってしまう。

>患者は「生命の神聖とか尊厳」なんてことは考えていません

患者はほっておけば生存の価値が危険にさらされるから、この論理でいくべき。
功利主義的に生命の神聖性を使うのです。武器を身につける、武装する。

>呼吸器を付けたくても付けられない人がたくさん亡くなっているのに、それがヘンだと言っているのです。

これこそ「生命の神聖とか尊厳」の意味における平等性の獲得で、先の原理と矛盾しませんよ。

>患者を見殺しにすることは、罪にならないから医者もメディアも知らん顔です。ヘンでしょ?

まったく馬鹿な話ですが、意図的に無視をしても、苦渋の判断でも、つけなかったら死ぬので、やっぱり医療者の意図や意思を問うたり、それを報道しない連中を糾弾しても問題の本質を理解していないことになります。
治療基準が統一化されていないからです。
「見殺し」の主張は、この状況を理解していない「医療当事者」「行政当事者」「マスコミ当事者」に言っても無駄なような気がする。

>だから、呼吸器を外せるようになったなら、呼吸器外したくもないのに外されちゃう人が出てくるんじゃないかと思います。

その場合呼吸器を外すことが、だれの意思によるのかというのが焦点化される。先の村西という役人は、医療者も患者もOKなんだからいいじゃないかという主張。でも、患者が意思をもって、意思がとめる=自殺幇助するので、法律に触れる。だから村西さんは、患者の自殺幇助法をつくりましょうといっているにすぎない。

>法で裁かれないのなら何でも好き勝手に医者ができるのが医療だから。

好き勝手ではなく「違法性の阻却」(法の適応の例外)の範囲を拡大し、患者の自殺の幇助という状況をつくりましょうといっているにすぎない。
君は、医療に対してずいぶん穿った見方をしていますね。iPSで盛り上がるというのは、医療というものは、これまでも、またこれからも、患者が考えるようには十分な効果を果たしてこなかった具体的な証拠だとと思います。近代医療は個々の患者に対して驚くべきほど無力(ワクチンのような予防手段のパフォーマンスに比して)。呪術とそれほど変わらない。もちろん、ここでの医療は、私はあくまでも、医療技術+制度的保障+患者の身体管理=医療、という見方ですけど。

>日本では呼吸器を付けないことは「不作為」なので法に触れず、呼吸器を取り外すのは「作為」なので法に触れます。

つけることは、治療手段とは考えられていないということですね。あくまでも自由裁量のオプション。
つけはじめると患者はサイボーグになり機械は生命維持のための身体部分になるので、外すのは阻却が適応されないので、傷害行為になります。

>多くの新聞記事の論調では後者を前者にあわせて、呼吸器の不開始も取り外しもすべて法に触れないようにしようとしていますね。

だから、(パラノイアの医者、立ち止まって考えることをしないマスコミ、そして実態を顧みず論理ゲームに明け暮れる思慮の足らない法律家たちの)これらの主張は論理的には馬鹿な主張をしているということになります。中学生ぐらいならわかる論理だと思うのだが……