2ちゃん式訓育、エコテロリスト消息ほか

mitzubishi2009-11-02

2ちゃんねる千葉大生殺害の書き込みに
おまえはまずは、大学生を「生徒」とは言わないということから学べ」(113の発言、スレッド『千葉大学の女子生徒が死んだけど』)というのがあったけど、こういう書き込み(発話)はいいねぇ。
DQNはウィキで調べればわからぬ現地語(すみません語彙が慣れなくて)なのだが、こういう発言はいいねぇ。語用論的修正というのだろうか。しっかりOJTやってますよね。
DQNドキュン)とはネット用語の一つ。ヤンキー(不良)など頭が悪そうな、もしくは悪く暴力的な感じの、もしくは暴力を奮う人、または、非常識、知識が乏しそうな、あるいは乏しい人を指すときに用いられる。特徴としては人相の悪さ、目つきの悪さがあげられる」(出典:DQN ウィキ日本語)。
さてさて、エコテロリスト消息(これは見逃せない)
「日本の調査捕鯨船への過激な妨害行為を毎年、繰り広げている米環境保護団体「シー・シェパード」(SS)が今年、2船態勢で捕鯨船への追跡を準備していることがわかった。従来の抗議船のほかに、40ノット(時速約72キロ)を誇るバイオディーゼル船が加わる。SSのポール・ワトソン船長は「海洋で日本船に付きまとい、鯨の捕獲を邪魔する」と宣言している」(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091102-00000047-san-int)。
[確かに私は「認識論から存在論へ」という存在論的転回について触れましたが(そのような職業的な文化的流行よりも)、存在論で[人類学で]何が語れるかという議論のほうがもっと重要だと前のメールでは書きました。表面だけを動きにまどわされないで。(哲学者に言わせれば、言語論的転回=言語の認識論の時期以前から、啓蒙思想の批判的捉え直しあるいは単刀直入に反啓蒙思想の観点から存在論にとっくに焦点は移しているわいと言われそうですし、そのことは[存在論の極みである]物理学史においても継続して議論されているところだと言われてしまいます。――量子力学シュレディンガーが1944年に『生命とはなにか』という本を書いているわけですから)くりかえしますが、この領域の議論は人類学は後発であるということを認識してとりかからないと、馬鹿なエピゴーネンと隣接分野の連中に思われてしまいます(社会学ほどイカレてはいないとは思うけどね)]。
【以下続き】
こう考えたらどうだろうか?
インフォーマントと仕事しますよね。呪術だとか神話だとか道徳や人の行き方などについての現地人は「こう思う」と主張している内容の記録をとる。あるいは葬式にいって悲しみにうちひしがれている様子を観察する。そのことについて、さまざまな現地人の解釈や意見を聞く。これらは(情動を含めて)認識論的な次元でのデータの総体になります。
他方、生業形態(畑仕事や狩猟)やものづくり、調理などを観察していると、その周りには必ず物質や否定できない物理的空間が広がってる。そこでは、世界はこのようになっている現地人の説明(認識論的世界)と、それに参与している人類学者と現地人の前に同時に提示されている世界(存在論的世界)がある。そこの中でとられるデータは、存在に関する認識論的なものであるが、同時に彼(女)らの存在論と我々の存在論(あるいはその認識)が出会う場所でもありますよね。
存在論的なデータとは、我々と彼らの世界のあり方のズレの中でしか産出できないものではないでしょうか?
E.B.タイラーのアニミズムが、未開人の馬鹿(あるいは非科学的)の証明に使われていたのが(古典的)進化主義人類学の時代であり、彼らの存在論アニミズム)が自分たちの存在論への相対的反省にむすびつかなかったのではないでしょうか。ビベイロ・デカストロのパースペクティズムが他の存在論的様式とともに、人類学者に対してある種の説明(それが何であるのか私は未熟でまだよくわかりませんが)において成功したと思えるのは、アニミズムという存在についての思考様式から(ズレの検証を通して)西洋社会の存在論への相対化(より積極的に言えば理解の深化)を引き出す可能性を導きだしたということではないでしょうか。ちょうど動物が人間をみる[ことが言説として定式化している]ように、南米の先住民が西洋社会の存在様式を相対化する能力があることを、誰の目にもわかるように提示していること。この能力の系譜は、レヴィ=ストロース、クラストル、山口昌男中沢新一などの所論との共通性があります(これらの論者はみんなルソーに遡れるヒューマニストなんですよ。フーコーニーチェに比べるとはるかにちがう[後者の2者はやはり認識論的伝統にはるかに引き込まれている])。
これはあくまでも、私の中間的な所感ですので、あくまでも参考意見にしてください。