金大中・KCIA・光州虐殺事件

金大中氏は、韓国情報機関「韓国中央情報部」(KCIA)に東京で拉致された金大中事件(1973年)で世界に知られ、光州事件で死刑判決を受けた。4度目の挑戦で韓国大統領に就任(98〜2003年)した。/また、分断後初の南北首脳会談を実現した。南北交流の功績によってノーベル平和賞を受賞した。しかし、その裏では5億ドルに上る対北秘密送金があったとされる。軍事政権から民主化を経て近代国家への道を歩んだ韓国の一時代を象徴する政治家だった。/金大中政権下では日本の文化開放が実施され、日韓の民間レベルの交流が一気に進むきっかけとなった」(headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090818-00000569-san-int)。
「韓国民主化運動の象徴的存在だったにもかかわらず、晩年にかけて最大の民族的課題であるはずの「北朝鮮民主化」には触れず対北融和策に終始した。ノーベル平和賞の「反独裁闘士」が「北の独裁」には目をつぶり続けた。これは民主化運動の功績にキズとなった。/金大中氏は生涯、3回も大統領選に敗北するなど長い野党生活の末、やっと念願の大統領の座についた。“忍冬草”の別名を持ち、挫折とあきらめを知らない「不死身の政治家」として定評があった。退任後も韓国政治に隠然と影響力を持ち続けた。/金大中政権(1998〜2003年)は、歴史的にいえば7世紀に百済(くだら)王国が滅んで以来、権力から遠ざけられていた韓国南西部の全羅道地域の人びとの復権だった。/金大中氏は、権力から疎外され、地域的差別感情の被害者だった故郷の全羅道地域を支持基盤にしてきた。この地域的支持基盤は韓国社会の不満層の中心で、人口の30%近くを占める。これに左派・革新勢力や親北勢力が乗っかることで政権を獲得した。/金大中氏は韓国が高度経済成長を遂げた1970代以降、経済開発から取り残された全羅道地域の不満や民主化要求を背景に反政府運動を展開。/これを快く思わない当時の朴正煕政権と激しく対立した。朴政権下の「金大中拉致事件」もその流れで起きている。/ライバルの朴政権は経済開発に国力を集中させ、政治的自由や民主主義は制限する「開発独裁」だった。その結果、経済発展と近代化で北朝鮮との国力を逆転させ、現在の韓国の基礎を築いた。しかし金大中氏は朴政権を「独裁」と非難し最も激しく反対した」(www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/korea/291250/)。