市場経済と贈与経済のハイブリッド:燃費はいいぞっ!

X君へ
 おはようございます。
 こちらは、今年も科研申請が落ちてがっくり来ています。
 私はかろうじて分担者でMMMM調査があるので帰りに寄るつもりでイェールの9月末の学会には行こうと思います。以前SMAから連絡をもらっていたのですが、すっかり忘れていました。準備状況をメールで送っていただくと、リマインダー代わりになり助かります。
 本業復帰(そういえば『◎◎のレッスン』がようやく2刷になり、やっと印税がもらえるようになりました)。
 さて、アブストラクトのコメントです。
 冒頭のつかみのエピソードは興味深いですが、もうちょっと挑発的に書いたほうがよくない?(どうせ査読があるのだから、当たって砕けろの意思で?_こういう野蛮なコメントは割り引いて考えてね)
 『菊と刀』のなかにあるように、日本では(ハウやタオンガのごとく)贈与は親しい間柄の紐帯に欠かせないツールになるために、ネットワークに入ると(市場交換には希薄で奇妙な)義務返済を作動させる「恩」として作動しますので、(そういう前近代的なしがらみを排除するのではあれば)むしろ日本的関係の中であれば臓器移植は贈与経済よりも、市場経済で回すほうがすっきりいく。だけど日本の医師や政府は近代医療はグローバルスタンダードで動かすべきだと思っているので、そのような土着的(パローキアル)で文化的な処方せんを構想することを、文化的に抑圧している。フィリピン議会での議論を日本の知識人は野蛮でクレイジーなものだと期せずして思っている(あるいは、そのような発想をオプションとして考えない「矜持」(麻生首相のニュアンスで)をもっていると自負する)。
 非西洋の経済は、やはり市場経済と贈与経済のハイブリッドで回っている、あたり前の現象でみると、やはり臓器移植はグローバルな臓器の国際循環のみならず土着的な流通とエトスの形成という文化人類学的な比較研究とのカップリングが今後とも発言力をもちつづけるとは思うのですが。
 あ〜、やっぱり私のコメントはどうも極端なので、ま、割り引いて考えてください。いまジョン・コルトレーンの音楽を聴きながらだからもしれない。