戦争パラノイア、殺人パラノイア・サンタフェ私書箱1663

『米軍資料原爆投下報告書:パンプキンと広島・長崎』東方出版を読む。
イラクよりも半世紀以上前に、米軍が精密爆撃に拘っていたことがわかる。
綿密に訓練を積み、確実に目的を遂行し(つまり「ものすごく高価な」原爆を落とし)乗務員の被害をなくす。このために、米軍の連中が多角的に計画を練っていたことがわかる。
こういう連中が、やがて金融工学を発明しつつも、自らのモラルハザードに苛まれ、経済をコントロールできなくなっていったのかを考えると変な気持ちになる。
確実に作戦を遂行し、そのことについてきちんと評価と反省をして、目的を完遂させてゆく。このことの繰り返しはビジネスでも戦争でも同じ。ただし、ほとんどジョークに思われるのは、新潟(小倉、広島、京都とならんで原爆の投下候補地)の攻撃目標の分析のなかに、何を作っているか分からない軽工業の工場のついての分析が、報告書によると不気味に書いてあることだ。ピンポイント爆撃が効率性について自信をもちはじめるとき、その目標が何であれ、ピンポイントで攻撃できるという目的が、その目標がほんとうは何のための工場かという本当に大切なことが忘れられ、無差別でなきゃよいだろうというふうに正当化される。イスラエルによるガザの国連施設の攻撃と同じような思い込み(パラノイア)がそこにもみられるというのは言い過ぎか?
なにかを正確にやりすぎるということは、その何かが絶対的悪(=殺戮)であったということを忘れさせてくれる。ゴルゴ13的美学あるいはアントン・シガー(シュガー?)的耽美主義と言うべきか……