日本の人類学者と国際開発機関との関係性

mitzubishi2009-01-30

日本の人類学者と国際開発機関との関係性を再加工する
Reworking the relationship between Japanese anthropologists and International Development Agency.

 時々――たとえばこのような論文執筆に追われた時に――私は、開発と文化に関する議論などどうでもいいような気分に考える。私の苛つきは、それより自分に気がかりなこと、自分にとって愁眉の問題解決のほうに関心がある。例えばイラクパレスチナのテロや、グアテマラの政治的不安定や都市における若者を中心とした犯罪集団のことである。これらの問題は自分が人類学者であるという以上に、生きる上での気がかりといってよい。これらの問題は、個々の問題の時間的広がり、取り扱う領域の社会的広がりゆえに、自分ではどうしようもならない思いにかられる。私がこれまでおこなってきた文化人類学調査は、比較的治安の安定したところであったので、社会的緊張が高まっている状況で、どのようなフィールドワークが可能であるのか、ほとんど想像がつかない。つまり、私が社会的に重要であると考えている問題系と、私が職業的な専門性を発揮できる領域には、乖離がある。だがこれは私だけではなく、世界の先進国のプチブルジョアの市民が日常生活の中での体験と共通していることでもあるだろう。イラク戦争WTOの国際的イベントに抗議するデモンストレーションに参加する北米やヨーロッパの人たちと心情(ethos)を共有しているのである。解決できない大きな問題への関心とその解決策に対する無力感が、その原因の遠因となる巨大な組織や悪に対して怨嗟(ルサンチマン)として爆発するのである。
 開発と文化の問題を論じる際には、それを有効に機能させるための政治的安定が無条件に必要とされている。政治的暴力技術と拷問の開発、とか暴力文化の促進などの実践的課題は、我々は議論しないものだからである。(他方、軍事産業や社会テクノクラート的な思考が支配する軍事組織の内部では、これは真面目に考察されるべき議論となる)。
 もちろん「文化と開発」政策を推し進めるユネスコは、文化を人間のソフトウェア的資質と考えている。ユネスコのこの政策は、文化的多様性を尊重するという視点の上にたって、それらを持続的可能性にもとづく開発のコースに載せようと考えている。