サロト・サルの頃の思い出

 Nさんが以前複写、御恵与くださった「CBPRに関する文献レビュー」(看護研究、39(2)41-54.)をようやく読み終えました。Nさん、その節はどうもありがとうございました。
 20年近く前にコミュニティ参加の保健医療活動に従事した私としては(要領よくまとめた良いレビューと思うものの)著者たちが学んだと思われる提唱の部分には特段の所感をいだくものではありませんでした。そこで指摘されていることは拙著『実践の医療人類学』(世界思想社)13章14章に書いてある内容を超えるものではなく、また著者たちの「われわれ専門家」という表現には強い違和感があり、最近Sさんに影響を受けている「市民の自覚性・自律性にもっと着目せよ」「専門家が市民の自律性の邪魔にすることもある」(=垂水源之介の受け取り方でSさんの発言を要約するものではありません)指摘の思いを再確認するものでした。
 この問題の克服についても、著者たちの見解には私は大反対であり、先の拙著のあとがき(p.343)にある[専門家]「自らが変化してゆく可能性」を拓いているからこそCBPRであるという、本当に重要なポイントを著者たちは見事に外していると思いました。
 ただしこういうふうな強い思い込み、革命家の幻想をもつことは禁物であり、フランスで学位をとったポル・ポト(=サロト・サル)がカンボジアでおこなったおぞましい社会実験への道(=専門家を火炙りにする)を拓くものでもあるからです。
専門家の専横を防ぎ、また[旧体制を暴力的に変革する]革命家の情念を怨念に換えることも抑制するためには、中途半端なデモクラシーにもとづく対話をやりつづけるしかないと思う次第。