ourt bans work on macaque brains

Alison Abbott, "Swiss court bans work on macaque brains:Universities appeal against ruling on animals' dignity."
"Zurich's two largest institutes are appealing to the country's supreme court after a lower court decided to ban two primate experiments studying how the brain adapts to change. They say that the ban is a serious threat to all basic research that uses animals in Switzerland. The University of Zurich and the Federal Institute of Technology Zurich (ETHZ) announced on 4 June that their local administrative court had ruled against the experiments on rhesus monkeys that had been approved in 2006 by the Swiss National Science Foundation, a funding agency and the Zurich canton's veterinary office, which is responsible for controlling animal welfare"(source: www.nature.com/news/2008/080611/full/453833a.html).
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個人的コメント
パート2のレジュメの内容はなかなか「深い」と思います。とくに私は「犬が死んだときのこと:死んでもやはり話しかけました.家の2階も見せてあげよう・・・と死んでから抱っこして2階を父と見せて回ったことがあります」という文言にこだわりたいですね。洗骨風習などのような二次葬や、NKさんが最近ハマっている落語の「らくだ」に出てくる死人(しびと)のカンカン踊りを想起させます。ここで民族学者(文化人類学者)として私がしゃしゃり出てきたら「この人たちは死人と生きている人(あるいは犬)を混同しているのではない。死んだ人(犬)は骸(むくろ)になることは我々がもつそれと同じ常識なのだ。ただ人々は死体は埋葬の前に生きていたときと〈同じ〉(=観察的事実は犬に理性的に語りかけたり連れて回ったりするので、生きている時よりもより敬意を払うのだが)ように扱うことを通して、生きていた時のコミュニケーションを〈儀礼的に再現(=再演)する〉と言いたいですね。
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このたびはご高論「不条理な苦痛と水俣の傷み」をご送付いただき誠にありがとうございます。
色川や最首が、市井をユダ呼ばわりしたにもかかわらず榛名山山中で行ったような現実的なゲバルトに手を染めなかったのは、お互いに知識人司祭階級に属していたからでしょうか。それとも色川や最首が〈真に人間的な人〉(=冗長語法)でよい人たちだったからでしょうか。
当時の知識人は倫理的な内的対話という身体技法をもたなかったから?――市井はそれを果たして具有していたでしょうか。大多数の知識の常識(業界のエートス)と自分の言説実践を調和することができなかった市井は哲学者失格あるいは、不器用な哲学者だったのだろうか。
なぞは深まるばかりです。しかし、だからといって読み返したくなるような格調高いものでもないですので、記憶の遠いかなたの痕跡に残るばかりでした。
というわけで、私の心のなかに残っている小さなトゲのことを思い起こしてくれたご高論に感謝しております。