O氏よりメールもらう

mitzubishi2008-06-06

O氏よりメールもらう。「人類学的デモクラシー」についてのコメント。
人類学的デモクラシーというと、しばしば、デモクラシーの人類学的相対化のことをいうのであるか?という質問を多くの人からもらう。「グアテマラ先住民の行動と主張」の発表の時には同じ職場の先生から「文化相対的な人権概念を立てたいのですか?」とのコメントをもらう。しかし、そうではないと言っているのだが、どうも私の説明がクリアではないのでなかなか伝わらない。しかし、このこと(図形とちがい人間経験のような概念は180度捻ったときにはその概念はまったく同じではなく……)をO氏は察しているようだ。
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「それに較べると幸福の話は薄っぺらいものです。
人間(一般)は精神を病むほど暗い(存在である)。人はもともと楽しい話よりも暗い話が好きなのではないでしょうか。
死んだ人は語りません、だから生きている証とは不幸を語り続けることでしょう。そして不幸に感染すること、つまり苦悩する人になることです。
さて、私がこのようなテーマの授業を数多くやるようになって気づいた真理がひとつあります。平和教育には戦争や暴力の記憶が不可欠であるということです。バイオレントな想像力がないと、平和を希求するパワーも不足するという訳です。
だから授業ではマッチポンプよろしく、まず紛争や暴力について延々と語り不幸を体験(共感)してもらい、その後で平和の有り難みや、その実現の手法について議論します。紛争解決学とか平和研究のいかがわしさを身をもって体験しています。
しかし、このようなやり方に私はもう飽きてきました。それはニーチェ[1993:433]のいう「生の貧化のゆえに苦悩する」学生を育てるだけで、授業が終わった後は、自ら感染した不幸を治癒すると喧伝する癒し産業に市場を開くだけです。
「破壊や解体や否定などのあらゆる贅沢」すら享受できる未来のペシミズムが到来したことを感じる人間、すなわちデュオニソス的ペシミストに我々は生まれ変わることができるのでしょうか?」
2005年3月11日のフィールドノートより)。 」