市民とは?

フロリダの『クリエイティブ資本論』という本はご存じ?
サブプライムでの落ちこぼれなどどこふく風、上流では、ウェブ2,0もそうだが、「クリエイティブ」クラスの社会比率の上昇や、労働者のエートスの変化(そんなに簡単に起こるのかは別にして)などが議論されていますね。
ま、そこそこ面白い(大竹文雄『日本の不平等』と合わせて読むと興味深いですな)。
ところで、政府系の読み物には、上席の役人には、最近「市民」という言葉がそこそこ流行っています。
市民といえば、我々の市民概念には、ウェブレン的な批判の要素があるけど、この政府や企業の重役の人たち(ちょっと最近影が薄いけど、イオンの岡田一族みたいな)の市民は、どうも、企業のコストをアウトソース化したい「市民」のようで、どこかの社長の暴言のように、結局は所詮底の薄いもの……。
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フロリダの『クリエイティブ資本論』どこまで読まれました?
あの本のなかの、リゾートで労働者はモーターバイクに乗り、カヌーにのったエクゼクティブに向かって「なんで休みに働らきゃならんのか?」と悪態をつくところの箇所は興味深いというか、フロリダの思慮の浅はかなところです。
このあたりは、ブルデュのディスタンクションやプロ倫の議論とも重なる部分ですね。しかし、プロ倫の解説で、フロリダの紹介は随分ものたりないもので、なんだこんな程度なの?と思った矢先に上のような議論なのです。
フロリダの説明は、結局クリエイティブクラスのエクゼクティブは、実際には筋肉労働しないから、リゾートで身体欲求の代替的なものを要求するのだと言っていますが、根拠が薄弱です。あるいは、極めて原始的な機能主義的説明に陥っています。もちろん、クリエイティブクラスにもスポーツの観戦のファンがいると反証を予想しながら解説をつづけていますが、やっぱり、この機能主義的説明の呪縛から逃れることはできません。
フロリダが馬鹿とは思えませんが、ブルデュはむしろ多元的尺度をとって階級とスポーツの選好性や、当事者の語りなどを多元的にむつび付けて、特定の趣味の選別が階級的差異の意識形成との関係について蘊蓄ある議論しており、その実力の差は歴然です。――ビジネススクールの教授に社会学的名人芸を調教するのは難しすぎるのか?
でも、他山の石。素朴な機能主義(あるいはラマルク主義)は、誰もが填る(知識人的)説明の罠ですな。