補講:愛情と性交回数

私が議論したかったポイントはいくつかありますが、もっとも興味のある動機は、人間を含む生命現象において目的論を排した説明がいかにして可能かということにありました。

  • -

以下は余計な補足説明です。
結局のところ、文明人はこの議論に呪縛されているために、生物創造説(新しくはインテリジェントデザイン)対ダーウィン進化論――というか創造説に「抵抗」しているのは、目的論を意識しすぎた目的論的進化論だと思いますが、あるいは、社会生物学(現在では進化生物学)対文化主義者(リベラルな反人種主義者というイデオロギーをもつ)という論争のなかでアレかコレかという単調な議論に終わってしまうのではないかと思います。もちろん、私はダーウィン進化論や文化主義の一派の人間であることを公に認めた上での発言です。

  • -

宮地の古式ゆかしい説明――京大の著名な動物学者とお会いする機会がありましたが、宮地の当該の主張はご存じなかったです(彼は最近はリンネにはまって読みまくっているらしい)。初出が共立出版生態学講座』(全巻読まないまでもみんなバイブルのように参考にして卒論を書いた)の月報だったというハンディはあるのですが――を彷彿させるような最新の興味深いエッセーを発見!
橋本千絵「サルの時間:チンパンジーのメスの生活を追って」『世界思想』35号(2008年春、pp.26-30)です。発情期のチンパンジーのメスの受精可能性を遙かに上回る性交回数の理由はなんだ?というのが、彼女のエッセーのポイントです。発情期が明確ではない人間も(受精のチャンスを考慮しても)性交回数は多く、ここではチンパンジーと人間が同列にされています。ただしチンパンジーの乱交の理由は、オスによる子殺しの回避から説明しています(子殺しの世界最初の報告はインドのハヌマンラングールのケースで報告したのは日本の杉山幸丸さんで、もう半世紀前になるのでは?)。彼女のエッセーを読んでいると、ルイス・ヘンリー・モーガンの親族起源の母系論の一歩手前になるだが、山極寿一(ゴリラ)ではそうならない。もちろん、こういう葛藤は、ゴリラやチンパンジーを我々(人間)のご先祖さまとして見なして、進化論的にも「目的論的」――この場合は単系進化で社会形態が類縁しているはずだという目的に叶う――にも帳尻をあわせる思考が邪魔?(あるいは合理的な説明を助けている)をしているわけですよ。

  • -

単純な想像力の行使ですが、性交を受精チャンスとは関係ナシにやりまくるというのは、愛情(快楽)というよりもスポーツのような感じがします。ロマンチックラブと同様、男女間の愛情というのは手段(構造)と目的(機能)の関係に関する自文化中心的な説明の域をまだ超えていないような感じがします。性病の宿主との関連性を考慮した進化史しか考えたほうが、手段(構造)と目的(機能)の関係の文化相対的な説明にたどり着き易いかもしれませんな。