モード3?ご冗談でしょう?――モード(n+1)と呼べばぁ?

まずモード論の復習

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「ギボンズらは、専門分野に依拠した伝統的な知識生産をモード1と呼び、専門分野を越えた知識生産をモード2と呼ぶ。モード1の知識生産はもっぱら大学で行われてきたし、現在も継続して行われている。一方、情報化社会の進展によって、大学以外のさまざまな場所(企業、官庁、NGONPOなど)における知識の生産と加工が容易となり、専門分野を越えたモード2の知識生産が可能となった、というのである。例えば、ある問題を解決するために、インターネットを駆使して多くの情報を収集するとともに、その過程で多くの専門家から成る人的ネットワークを構築していくというモード2的な知識生産は、総合科学の実践に他ならないだろう。」(home.hiroshima-u.ac.jp/nkaoru/Fukuyamalecture.html)

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ここで、モード1とモード2を往還するモードを3と呼ぼうかという議論あるらしい。モード3?ご冗談でしょう?――モード(n+1)と呼べばぁ?という気になる。あるいは百歩譲って、ギボンズはモードの多元性の可能性、あるいは共存状態のことを記述しようとしたのだというのが、創造的な解釈であろう。モード論を1から2への遷移と考えたり、そうすべきだという安もんの道徳を説かないで欲しいねぇ。科学のモード論はあくまでも記述、観察から出てきた概念である。そうすれば、それらの様態を分析する視点は価値中立を志向すべきで、封建制はとんでもない社会だから暴力と無秩序に満ちている共和制への革命が必要だ(あるいは歴史の必然)という目的論を導いてしまう。モード論は価値判断にもとづくユートピアを投影する概念ではないのだ。