認知症と身体拘束(「抑制」)

・「厚生省は、介護保険制度の施行にあたり、「身体拘束の禁止」に関する省令(1999年3月31日付)を定め、介護保険施設に「身体的拘束等の原則禁止」を義務付けました。……これらの実践は、抑制を廃止することにより、抑制から解き放たれた利用者の表情が明るくなり、ADLやQOLが飛躍的に向上する等の効果があることを示しました。また、介護や看護の現場からも、抑制することによって見えてこなかった様々な問題が抑制を外すことによって見え始めてきたし、介護や看護技術の向上につながった、何よりも、要介護高齢者の生活を支えているという「介護従事者としての誇りと喜び」を強く実感できるようになった等々、数多くの報告が寄せられています。」(http://www.humind.or.jp/no-yokusei/appeal.html)。


小林教授のレクチャーより、ライフの3つの相:いのち(sprit)、生活(mind)、生命(body)


「共生」の日本語用法とは、椎尾弁匡(しいお・べんきょう)共生会の共生運動からくる。

真鍋顕 久、「社会福祉の観点からの共生思想―仏教における共生―」(名古屋女子大学 紀要 50(人・社) 55∼66 2004)
「わが国における「共生」の用語の普及は椎尾弁匡師(1876∼1971)の理論と実践活動に負うと
ころが多大である。椎尾弁匡師は浄土宗の学僧、共生会の創設者、慈友会の中心人物でもある。
浄土宗の山下官長が、1918年に「国民覚醒運動の所志を表明」したことを受けて、椎尾らが「一
宗をあげて時局覚醒の運動」に着手し、仏教の教説や精神に基づく社会や国家、さらには世界
名古屋女子大学紀要 第50号(人文・社会編)
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の改良・改善・改造の必要性を訴えた。その後、椎尾師は、「共生」の理念のもと教育界にて
後進の指導に生涯を捧げた、さらに衆議院議員も務めている。
椎尾(1972)は宗教を、「真に生きんとする欲求を充たすにありて、真に生くるは今生きて永
遠に伸ぶるにあり、己を空にして一切を全うするにあるものと信ずる」とし、宗教の「究竟は
ただ社会的事象であって、社会的に解脱し、真の共生を全うすべきものである。」と主張し、
共生運動を開始する。「椎尾の共生運動は日常的な業務の中に阿弥陀仏の真実生命を発見し、
同事、すなわち協調と分担の社会を実現するとあるようにあくまで社会の宗教として展開す
る」。
椎尾(1972)によれば、『共生の基調』では「共生のすがた」として十項目を挙げている。
(一)身生きる。それは喜び働くことである。(二)心生きる。それはめざめいさむことで
ある。(三)物生きる。それは、簡易生活の必要、廃物を利用し厚生すること、物は天地
一切の力の集まるもの、である。(四)事生きる。一切の事を生かすには、虚礼陋習の打
破、当務充実、業務分配、が必要である。(五)人生きる。それには、時を生かす、教養
を生かす、信仰生活、が必要となる。(六)家生きる。和合である。(七)隣閭生きる。(八)
自治生きる。(九)国いきる。(十)世界いきる。「各人業務に生きてその分担を全うし、
互いに和合協力信用して進歩発展する。ここに同胞国家の現実となり国が生きることとな
ります。かかる国家が集まって国際に生き、ついに全人類とともに生き、一切の死有を棄
却して生々の発展やまず、覚醒進歩の仏国浄土−共生世界の実現−となることを期するも
のであります」と述べている。
さらに、椎尾(1972)は、共生要目の十綱を目標として掲げている。
(一)共生同人は共存共栄の立場より、進んで共生真実の大道に生きるものとす。(二)共
生同人は天地一切の諸縁和合を実相とし、生命とし、これを共生きするものとす。(三)
共生同人は一切の迷信を打破し、覚醒正態の宗教に生き、創造進化を旨とす。(四)共生
同人は国体の尊厳を明にし、国民信念に生きて万邦協和を全うせんとす。(五)共生同人
は研究考察を深くし、改善実行をあげ「喜び働く」をモットーとす。(六)共生同人は業
務の尊重充実をもって生命とし、死事死物なきを期するものとす。(七)共生同人は偏見
の誤りを脱し、全体の作業、有信の教育を主張するものとす。(八)共生同人は政治の中
心を人生進歩に描き、同胞生活と人類共生の実現を期するものとす。(九)共生同人は経
済すなわち信仰の立場に立って産業の発達、経済の充実を計るものとす。(十)共生同人
は浄仏国土成就衆生をもって使命とし本願として主張するものとす。
このように人間の生きる実相として縁起を捉えた共生の思想を実践に移し、共生運動を展開
し、「共生」という新しい仏教の姿を実現させたのである。
椎尾にとって共生運動は、仏教思想の基本である縁起の社会的実践であり、また浄土教の真
実相である。さらに、椎尾(1972)は浄土教観について「浄土宗は単なる個人の解脱ではない。
浄土を顕現せんとするのであって、その浄土の中に私のあらわれるのが往生浄土である」と述
べている。椎尾の浄土教観について、藤本(1999)は「そこには、『共生』を『共に生まれる』
ではなくて『共に生きる』と理解する椎尾の思想が脈打っている」とし、往生・共生理解が、
浄土教の有する『時期相応性』の具体的事例とみなすならば、具体的な時代の具体的現場の
只中において、仏教なかずく浄土教が主体的に捉えられるときに、その具体的な時代・人心に
応答することが求められる。その意味で言えば、『生まれる』が『生きる』へ比重を置くゆえ
に、浄土教用語の再解釈と“社会”という視点をもたらす。その観点から生起するのが、“社
社会福祉の観点からの共生思想
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会的”ないしは“念仏的”体験に基づくところの椎尾の強調する意味での『共生』である」と
述べている。
このような「生まれる」という意味が「生きる」という意味として受容される変化に注目し
なければならないが、そこには人間を「死後」という観点よりも、「生きている事実と現象」
において捉える価値観のようなものが近代及び現代を支配していることも影響しているといえ
るであろう。このような価値観の支配とともに、椎尾の共生運動により、「共生」が「共に生
きる」と理解されることになるのである。椎尾は『共生の原理と組織』の論文のなかで「万法
の根本実相は共生」にありと結論づけ、共生とは「人間としての真実生活を全うする」ことに
より「ほんとうに生きる」ことである、としている。さらに、「ほんとうに生きるということ
は、単なる存在の思想を打破して、常に進歩有り、調和有り、美しさある生きる道に進むにあ
ります。(中略)天地を抱擁して歩々進歩せしむる大生命の中にともに生かされるをいう」と述
べている」。
出典:「社会福祉の観点からの共生思想」libweb.nagoya-wu.ac.jp/kiyo/kiyo50/kj5006.pdf